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Androidアプリ「熟睡アラーム」

睡眠の深さや睡眠時間、就寝・起床のリズムなどを分析してくれるアプリです。 なかなか興味深い結果が出るので、面白いアプリだと思います。 就寝時間や起床時間は、自分で「寝る」、「起きる」というボタンでアプリに教えるのですが、不思議なのは「睡眠の深さ」です。 あとは、「睡眠のリズム」や「美容」、「浅い睡眠」、「深い睡眠」などを評価してくれます。 どうやらスマホ本体のセンサーで寝ている時の動きなどを感知して、眠りの深さを評価しているようなのですが、存外、スマホと自分の位置関係で眠りの状況が変わっているような気がします。 それでも、自分の睡眠を評価するのは案外楽しいものです。 みなさま、是非、自分の睡眠を評価してみてください。

950(1573)_==天正1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  元亀4年、この年7月28日、元亀から天正に改元。  元亀4年(1573) ?月、吉川元長が、旧名の元資から元長に名乗りを改める。  元亀4年(1573) ?月、この頃の伯耆の有力者は南条氏。南条氏は佐々木源氏の庶流で、14世紀頃に南条氏の祖伯耆守貞宗が伯耆河村郡羽衣石に羽衣石城を築城したことに始まる。南北朝/室町期には東伯耆にまで勢力を伸長。羽衣石城から数㌔離れた長和田に城下町を形成。  元亀4年(1573) ?月、織田信長が羽柴秀吉/武井某に命じ、小早川隆景宛に書状。小早川隆景から因幡/但馬の情勢について報告を受け、近日中に京都に入り、但馬出兵の日限を毛利方に連絡するという内容。⇒この時期、織田信長は伊勢一向一揆の鎮定に当たっていたため実質上但馬出兵は無理だった。  元亀4年(1573) ?月、山中鹿之助、立原久綱ら、織田信長に接見。>はじめ柴田勝家を通じて織田信長に援助を願った(同年12月12日付け安国寺恵瓊の書状より)とも、明智光秀を頼ったとも>最終的には、明智光秀を頼ることになり、明智光秀の先陣を命じられた>織田信長は尼子氏への援助を約しながら、毛利氏にはこれを断ったと回答。  元亀4年(1573)?月、宇喜多直家、沼城から石山城に移る。//この頃の直家は天神山城浦上宗景の重臣。亀山城を弟春家に守らせる。  元亀4年?月、宇喜多、毛利が同盟。  元亀4年1月、織田信長が、織田掃部を刑部に滞陣中の武田信玄のもとに遣わし、腰を低くしてこれまでの経緯の弁明を行ったが、信玄意に介さず。  元亀4年1月7日、武田信玄が、織田信長との和睦を仲介した将軍足利義昭に対して、信長との講話を謝絶する旨を回答する。  元亀4年1月10日、本願寺顕如が、刑部に滞陣する武田信玄宛に、「遠州表に於て徳川敗北の様体、頻りに聞こえ候、珍重之に過ぐ可あらず候」など徳川家康に大勝したことを祝う書状を送る。  元亀4年1月17日、本願寺顕如が、刑部に滞陣する武田信玄宛に、「大慶此事に候」という書状を送るとともに、遠江・三河・尾張・美濃の四国の門徒も武田勢

950(1572)_==元亀3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  元亀3年?月、宇喜多秀家誕生。  元亀3年(1572)1月10日、本願寺顕如が、長子教如の得度に対する謝恩として、朝廷に300疋を献上。//教如の得度は永禄13年2月であり、得度の謝恩は名目で、朝廷との結び付きを強めるための献金。  元亀3年1月14日、本願寺顕如が、武田信玄に宛てて、織田信長が春に摂津・河内に出陣するとの風聞に対して、背後からの牽制を要請。合わせて、上杉謙信に攻められている越中の椎名康胤を助けて欲しい旨も要請。さらに、信玄に黄金50両、息子勝頼に黄金20両を贈る。  元亀3年1月18日、織田信長が、将軍足利義昭の名で、武田氏、北条氏、上杉氏の和睦を呼びかける。  元亀3年(1572)1月21日、吉田兼見、近江坂本に明智光秀を訪れる。  元亀3年1月23日、六角義賢が、門徒とともに近江の金ケ森と三宅(守山市三宅町)に籠る。//織田方は、佐久間信盛がこれを攻めるも容易に落ちず。  元亀3年閏1月3日、上杉謙信が、武田方の属城上野国石倉城を攻略し、城郭を破却して、厩橋城に凱旋。その後、武田・北条軍と利根川を挟んで対陣したが、同年4月に帰国。  元亀3年閏1月6日、吉田兼見、明智光秀の坂本築城の見舞いに行って、酒肴を送る。 元亀3年閏1月13日、将軍足利義昭が、毛利輝元と小早川隆景宛に、讃岐まで兵を出すよう要請する書状を送る。  元亀3年閏1月26日、即位の旗桙の役を務める四郎二郎というものの給田が、法証寺領と号して勘落された(足利義昭が没収)事に対して、正親町天皇が武家伝奏万里小路惟房を通じて明智光秀に命じてこれを止めさせるよう求める。 元亀3年3月3日、吉田兼見,明智光秀を訪ねて近江坂本に赴くも,明智光秀不在。  元亀3年3月6日、織田信長,羽柴秀吉の守る近江横山城に入城。  元亀3年3月7日、織田信長が4万の兵を率いて浅井久政・長政父子討伐のため近江に着陣。  元亀3年3月7日、織田信長,小谷山と山本山との間に陣して余呉・木ノ本などを放火。  元亀3年3月12日、本願寺顕如が、朝倉義景に書状と太刀・馬など十種十荷の贈物を送る。//近

祝 10,000アクセス!(^^)!

ついに10,000アクセスを突破しました。 今後も、年表の充実に力を注ぎたいと思いますが、当面は、小説の執筆に傾注したいと思っています。 10,000アクセスの記念と備忘として、ブログにアップしておきます。

950(1571)_==元亀2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  元亀2年、清水景治(清水宗治の嫡子)が生まれる。  元亀2年(1571)1月2日、織田信長が、近江横山城にいる木下秀吉に、大坂と北国(北陸)の往来を封鎖するよう命じる。  元亀2年2月7日、本願寺顕如が、朝倉義景から贈られた舜挙の絵2幅が届いたことに礼状を発送。//義景は昨年夏に舜挙の絵を発送していたが、道中混乱のため到着が遅れたか?  元亀2年(1571)2月7日、尼子家臣平野基久、伯耆国尾高城下の浄満原に夜襲をかけるが、尾高城主杉原盛重、尼子勢を城外に打ち破り、平野基久が討死。  元亀2月2月中旬、山中鹿之助、平野基久の弔い合戦のため尾高城(守将杉原盛重)を攻めるが、返り討ちにあい、尼子勢の馬田慶篤が討死。  元亀2年2月18日、石山本願寺の慶寿院(顕如の祖母)が逝去。享年79歳。//幼かった証如や顕如を後見。  元亀2年2月、浅井氏の属城佐和山城は元亀1年6月以来の籠城に耐えかね、城主磯野員昌は開城し、攻撃側の丹羽長秀と人質を交換し、高島に退きのく。織田信長は、磯野員昌の降を入れ、近江高島郡を与える。  元亀2年2月、織田信長が丹羽長秀に近江国佐和山城を与える。  元亀2年2月、足利義昭が参内。この際,辻固めに伊丹勝興が三千ばかりを率いて上京。供奉は細川藤賢・細川藤孝・伊勢三郎・飯川弥四郎・真木島孫六・安威兵部少輔・後藤治部少輔・沼田弥四郎・沼田弥七郎,奉行は諏訪時長・飯尾昭連。  元亀2年2月30日、織田信長,岐阜から入京して,明智光秀の陣を宿所とする。  元亀2年3月1日、織田信長,禁裏へ伺候。禁裏の修繕の作事を見て回る。  元亀2年3月16日、三好義継・松永久秀,織田信長を見舞う。申し次は村井貞勝。  元亀2年3月19日、高瀬城主米原綱寛、毛利勢に寝返った野村士悦を頼って開城。これにより吉川元春、高瀬城を攻略。城将米原綱寛は新山城に送られる。高瀬城は長い籠城で兵糧が底を尽きた。  元亀2年4月17日、上杉謙信が、伝馬と宿送の印鑑を定める。//印文は「勝軍地蔵・摩利支天・飯縄明神」  元亀2年4月1

950(1570)_==元亀1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄13年、この年4月23日に元亀に改元。  永禄13年(1570)、この年4月に元亀に改元。  永禄13年(1570)、織田信長、公家衆にその所領を書き上げることを命じる。  元亀1年、宇喜多直家、石山城主金光宗高を暗殺し、石山城を奪う。  永禄13年(1570)1月6日、毛利勢、尼子氏討伐のため、安芸吉田郡山城を出陣。折から深雪。  永禄13年(1570)、毛利元就、毛利輝元を総大将として、粟屋元真/国司元武以下譜代約6千、吉川元春と石見衆、小早川隆景と備後衆、宍戸隆家と備中衆、さらには天野元定、熊谷信直や安芸佐東川内以下の水軍2百艘で総兵力2万5千で尼子氏討伐を開始。  永禄13年(1570)1月7日、本願寺顕如が、織田信長に年賀の祝儀と太刀・馬を贈る。 永禄13年(1570)1月11日、上杉輝虎が、佐野昌綱の下野国唐沢山城を攻め、これを北条氏政に知らせた上で、武蔵岩槻城を太田資正に返還するよう要求。  永禄13年1月16日、本願寺顕如が、足利義昭に三淵晴員を通じて年賀の祝儀を献上。  永禄13年、織田信長が、阿波の門徒が三好三人衆に加担している点について石山本願寺を糾弾し、石山からの退去を求める。//顕如は怒り、評定の結果、信長が攻めて来れば戦う他なしと決定し、「此度、石山の境内を御城地になされたき思し召しに付き、御処望尤もに候えども、当地は仏意相応百縁の地に候はば、ひとえに御用捨下さるべし」と返答。  永禄13年1月23日、織田信長が足利義昭に5カ条の条書を提示。宛名は織田信長から朝山日乗と明智光秀となっており、足利義昭が袖判をおして承認する形になっている。//足利義昭、この条書きの内容に憤る。  永禄13年1月23日、織田信長が諸国の大小名に2月中旬の参洛をうながす書状を発信。畿内、近国の大名/国衆が中心だが、遠国では三河/遠江の徳川家康、甲斐の武田氏、北陸の神保、出雲尼子氏、備前衆(浦上氏など)があり。  永禄13年(1570)1月28日、毛利氏、出雲飯石郡多久和(現三刀屋町多久和:守将多久和大和守)の多久和城を攻撃。秋上庵介/尤道理介

950(1569)_==永禄12年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄12年、尼子氏と但馬の山名氏が同盟を結ぶ。  永禄12年(1569)1月4日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛太輔竜興、長井隼人ら、南方の諸浪人を催し、薬師寺九郎左衛門を先鋒として、将軍足利義昭の御座所六条に取り詰め、門前を焼き払い、寺中に乗り入れようとする。(三好三人衆とは三好長逸らで、堺の後援を受ける。このとき、六条に立て籠もる武将は、細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七。斎藤竜興は後に越前に下って、朝倉義景を頼ったが刀根山の合戦で戦死。しかし、竜興の弟(斎藤新五郎≒織田信孝の家老斎藤玄蕃允利堯か?)は道三の孫であることから、信長はこれを助けて、斎藤家の跡を継がせるため、生活をできるだけの領地を与えた。)  永禄12年(1569)1月4日、薬師寺九郎左衛門(三好方)が山県源内、宇野弥七両人を討ち取る。  永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆が京都に乱入し、足利義昭の住む六条本圀寺を襲う。(この際、細川典厩藤賢・津田左近・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中守および若狭衆の山県源内・宇野孫七らが切ってで、後巻きとして伊丹・荒木・茨木・細川兵部大輔(藤孝)・三好左京大夫らがかけ向かい、桂川辺りで1戦に及んで大利を得た(原本信長記)(1月6日が正解?)。)  永禄12年1月、三好左京大夫、細川兵部太輔、池田筑後、六条将軍御座所に救援に向かう。  永禄12年1月、京都桂川あたりにて、織田軍と三好軍がぶつかる。織田勢は、細川兵部太輔、三好左京大夫、池田筑後、伊丹、荒木、茨木ら。三好勢のうち、高安権安、吉成勘介、同弟、岩成弥介、林源太郎、市田鹿目介らを討ち取る。  永禄12年1月6日、三好三人衆と織田勢が、京の桂川付近で合戦。  永禄12年1月6日、織田信長、三好三人衆が京都に乱入した旨の飛脚の知らせをうける。(この日、大雪)  永禄12年1月6日、織田信長、大雪の中、美濃岐阜城を出発。  永禄12年1月8日