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ダッフィージェット!

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羽田空港にて!

JOYFIT入会!

本日、JOYFITに入会! 台風11号が過ぎ去り、昨日昼前に屋外ランを決行したのですが、気温32℃で7km走って、バテバテになりました。また、その前の早朝6時頃にも屋外ランしたのですが、こちらは突然の豪雨に見舞われ、途中で引き返すという無念な結果でござる。 やはり、気候が過酷な季節は屋外ランよりも屋外の方が良さそうです。 ということで、以前、体験利用をしていたJOYFITへの入会を決意! 月会費が5千円少々と経済的な負担は大ですが、熱中症でダウンするよりはましなので…。 マシン関係は使い方がよく分からないこともあり、また基本的にはランしたいので、トレッドミルを中心に、少しだけバイクをかじりました。 テレビを見ながらのランというのも悪くはないですね。 ちなみに、トレッドミルを下りた直後のふらつき感って、凄いですね。 始めて経験したときは、転びそうになりました。

小豆島タートルマラソン(ハーフの部)にエントリー

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神戸マラソンに落選しました。初出場枠でもハードルが高いです。 小豆島オリーブマラソンの印象が、激しい高低差をのぞき、非常によかったので、今度は小豆島タートルマラソンにエントリーすることにしました。 小豆島タートル…は、抽選ではなく、先着順(入金順)なので、確実なのがよいですね。 フルにするか、ハーフにするか迷いましたが、厳しい高低差を考慮して、とりあえずハーフを選択! ということで、今日はハーフを走りました。 参考  香川県で見つけた工事用バリケードです。  うどん県らしい趣向でございます。  その他はサンポートの防波堤から見た高松と女木島の写真です。

磁場の井戸:第四章 対岸(五)/長編歴史小説

 日幡城が落城した日の夜、久方ぶりに七郎次郎が宗治の元にずぶ濡れの姿で現れた。 「無沙汰であったな。」 宗治は久しぶりに見た七郎次郎の顔に向かってそう言った。外界の出来事を早く知りたいと言う心中とは裏腹に、宗治の口調はなぜか落ち着いていた。七郎次郎が自分の前に姿を現した事は、既に宗治の欲求を満たす十分条件となっていた。  七郎次郎は、濡れた頭髪から止めどなく滴り落ちる水滴を気にも留めず、片膝をついたまま、宗治の前で顔を伏せていた。七郎次郎の座っているところにだけ、黒い染みのように水溜まりができていた。七郎次郎はそれでも動くことなく、宗治の次の言葉を待った。 「外の戦は如何であった。」 宗治はそんな言葉で自分の求めるものを七郎次郎に対して表現した。 「日幡が寝返り、本日、その日幡を毛利勢が奪還、城を焼き払いましてございます。」 七郎次郎は顛末の末から話を切り出した。そこから、宗治は一部始終について七郎次郎に問うた。宗治は湖水の対岸で展開された事実を遅れること一日で知った。日幡六郎兵衛が上原元祐に殺された事、そして、日幡の城が地上から消滅した事を…。そして、これらの事実という液体の中に身を浸し、体中に染み込ませながら、思っていた。 (それでも秀吉は動かぬか。)  七郎次郎は、思案に入った宗治の顔を、無言で見つめていた。宗治は漆黒の闇を見つめ続けていた。 (秀吉は、この高松を落とす事に全精力を注ぎ込んでいる。) 秀吉は今や天下に聞こえた織田信長の一手の大将である。その秀吉をここまで引き付けている高松城にあって、その城主を務める自分に少なからぬ興奮を感じると同時に、宗治は鎖で繋がれたように身動きの取れない自らの境遇を心中で嘆く以外にやるべきことのない自分にもどかしさ感じ続けていた。  それから数日後の夜明け前、再び鉄砲の音とともに、備中の野に黒煙が上った。 (次は何か。) 宗治は思うと同時に、櫓へと昇る梯子に手をかけていた。黒煙の出所はどうやら加茂城の辺りと予想がついた。夜明け前の薄明かりを切り裂くような乾いた鉄砲の音が、遠近の草の上の朝露を震わせた。  宗治は隆景の本陣日差山と加茂の方角を繰り返し、見比べるようにして、毛利勢の様子を覗い続けた。加茂から上がる煙は、時を経るに連れて次第に激しく、濃くなっている。一方、日差山の方角はどっしりと根

トウモロコシが出来たー!

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今年もトウモロコシができました! 身が白めの品種なのかなぁ…。  去年は茹でたので、今年は、魚焼きグリルで焼いてみよー!

司馬遼太郎先生なら、昨今の集団的自衛権に関する議論をどのように語られるだろうか (その3)

抜粋終わり。 司空が思うに、"存立危機事態"などなど、新しい、あるいは、耳慣れない単語を使用するならば、その定義を明確にしておくことが、後世の日本国民に対する最低限の責務ではないだろうか。 この定義が中途半端のままだと、第日本帝国憲法第三十一条の二の舞になりかねない。 仮に、良識ある現代の政治家の方々や有識者の皆さまが未来永劫、その立場で良識ある判断をしていただけるならば、もしかしたら曖昧なままでもよいのかもしれないが、権力を持ち、行使する立場の人間が時とともに変わるということを念頭に置き、後世、悪解釈されぬよう、明々白々な定義付けをしておくべきではないだろうか。

司馬遼太郎先生なら、昨今の集団的自衛権に関する議論をどのように語られるだろうか (その2)

「事変ノ文字ハ仏語ニテ(インサルレクション)ト云フ」  (中略)  井上はさらに日本語で説明した。 「事変とは寧ロ戦時ニ属シ内乱又ハ暴民ノ蜂起スル等不時ノ事変ヲ云フモノナリ」  また、言う。 「政府ハ勢力ヲ以テ之カ鎮圧ニ従事シ人民ノ権利ヲ中止スルノ場合ニ云フモノナリ」  となると、"事変"というのは小規模なものではない。まずは日本でおこる可能性のないほどの大きいものである。山田法相は、 「いっそ内乱という言葉をつかったほうがはっきりするのではないか。」  といった。  この司法大臣は明治十年の西南戦争のとき、司法卿にいながらふたたび軍服を着、第二旅団をひきいて南九州で戦った経歴をもっている。  山田顕義が経験した内乱は、戊辰戦争では戦場が北日本と東北にひろがり、北海道におよんだ。西南戦争はその点、南九州を中心とした局地戦だったが、戦闘の激烈さは、類がなかった。非常大権が発動されるべき内乱とは、当然そのようなものだと山田はおもったにちがいない。  結局、採決の結果、原案どおり、事変になった。