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真言宗総本山 教王護国寺 東寺の秋のライトアップ

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京都 東寺。 言わずと知れた、世界文化遺産。 真言宗総本山 教王護国寺、弘法大師(空海)の創建でございます。 午前中、京都南ICを下りて洛中に向かう途中に「ライトアップ」という看板を見つけ、帰路に拝観。色付きはじめた落葉樹の向こう側に浮かび上がる東寺の象徴五重塔は幻想的で、木材が黄金色の光彩を放っているようにも見えます。(この記事をアップすることには、紅葉も最盛期かもしれません) 金堂も講堂も公開されていました。 金堂には、薄明かりの中で夜の闇に浮かぶ薬師三尊と薬師如来座像を力強く支える十二神将が鎮座しています。 講堂には、大日如来を中心にして、四隅には多聞天、持国天、増長天・広目天の四天王と、五体の金剛菩薩像、五体の明王像、さらに、梵天と帝釈天が、密教浄土を表現しています。 蝋燭の灯火なら、微風が光を揺らすことにより、仏像の金色に絶妙な動的陰影を与えるのだとおもいますが、明るすぎる夜に慣れてしまった私には光源が電気であっても往時を忍ぶことができているような錯覚を覚えます。(金堂、講堂内は撮影禁止でした。) 灯火の少ない境内を歩きながら、観智院や宝物館も参詣できるのかと思い、歩いてみましたが、さすがにそれらは閉館しておりました。 パンフレットに拠れば、ライトアップは12月上旬までです。何も考えず、準備もせずに、自家用車でアクセスしましたが、駐車場はありました(拝観料とは別料金が必要です)。 地方の自動車利用者には駐車料金と拝観料のダブルパンチですが、わたしは拝観する価値があると思います。

ため池周回ラン

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この二、三日、11月とは思えない陽気です。 久しぶりに自宅近くのため池を周回ラン! 美しい夕焼けでした。 スマホでは眉月を明瞭に撮影することは難しそうです。

峡の劔:第七章 黒衣の旅僧(1)

 数日後の夕刻、松永陣屋の門前に墨染めの布で全身を覆った旅僧が現れる。  弥蔵が旅僧の唇の動きを読み取る。読唇術などの細かい芸当は経験豊富な弥蔵の十八番である。 ―弾正殿に数寄の僧が喫茶しに参ったと伝えよ。  弥蔵が清太の方を振り返って旅僧の言葉を伝える。  松永陣屋には、織田氏の伝令や使者は当然だが、戦陣であるにも係わらず茶の湯を嗜む商人や茶道具を納めに来た商家の手代など様々な人間が出入りする。  清太は「茶」に関して多少の知識はあったが、「茶」を名目に戦場の陣屋に得体の知れない者が多数出入りし、さらに、侘び寂びなどと言いながら、主客のみで小さな部屋に籠って余人を近付けず語り合うことについて、先日の藤佐の件もあり、相当な疑念を抱いている。 「妖怪の類いは夕刻に姿を現すものと相場が決まっています。少し様子を見て参ります。」  冗談交じりに言った弥蔵の影が、松永陣屋の砦柵の向こう側に吸い込まれる。  四半刻ほど経過する。  夕陽が山の端に懸かり、濃い暮色が周囲を支配する。  清太の瞳が、夕闇を突いて陣屋の砦柵を飛び越える弥蔵の影を、捕える。  直後、弥蔵を追跡する形で別の影が砦柵を跳び越える。 ―先刻の旅僧…。  清太は弥蔵の背後にある黒い影を識別する。  弥蔵の軌跡が、清太の潜む樹幹を避けるように右へと緩い円弧を描く。  旅僧が弥蔵を追跡しながら、短く口笛を吹鳴する。尖った高音に反応して、清太の左側、十間ほど離れた位置に、忽然と殺気が湧き上がる。清太は太い樹幹の背後に姿を隠し、杖を握る左手に力を込めながら、右手を懐に入れて小柄を握る。旅僧は一心不乱に疾走している弥蔵との距離を次第に縮める。  清太の左側に湧いた殺気が弥蔵の前方に回り込もうと移動する。弥蔵はその意図を避けるため、進路を左方へ曲げる。  結果的に弥蔵は清太の潜む樹幹の脇を駆け抜ける。  執拗に弥蔵に追い縋る旅僧がその樹幹を通過した刹那、清太が立て続けに二本の小柄を旅僧に投じる。  小柄は旅僧の影に吸い込まれる寸前に、黒衣に弾かれたように失速し、乾いた音を立てて地面に転がる。  清太は剣を抜き、旅僧に襲い掛かる。旅僧は大きく真横に跳び、清太が振り抜く瞬速の太刀筋を躱す。清太は大胆に跳躍して、渾身の斬撃を繰り出す。旅僧は全身を包む黒衣を大きく揺らしながら、後方に跳

峡の劔:第六章 四天王寺(2)

 ほどなく老僧が細長い形状の宝物を収めた綾織の袋を両手で奉戴しながら、金堂を退出する。 ―宝剣…。  亥介達は老僧の手元を凝視する。  その瞬間、老僧は金堂の入口を警護する四人の僧侶を手招き、突然、亥介達を指さす。老僧と亥介達の視線が絡まる。遠くにあるはずの老僧の瞳が二人の視界に大きく広がる。 ―魅入られる。  二人は視線を外して、老僧の瞳から逃れる。しかし、老僧が自分たちを指し示す指先が二人の瞳の中でゆっくりと回転しながら次々と分裂し、二人を妖異の世界へと引き摺り込む。二人の視界が無数の指先に支配される寸前、指は消滅し、微笑を浮かべた老僧の皺顔に変化する。その刹那、僧侶達が次々と半鐘、木鉦、指笛などを鳴らし、寺域全体に侵入者の存在を知らせる。 「嵌められた…。」  総馬が呟く。  老僧は何事もなかったように悠然と中門へ歩いていく。  伽藍内にいる僧兵、僧侶が亥介達の足下に集まり始める。伽藍内の騒擾は外部にも伝播するが、伽藍の外側にいる僧達は侵入者の位置を特定できないまま、いたずらに右往左往している。亥介は背後を振り返って総馬の袖を引き、 ―撤収じゃ。 と、目顔で告げて促す。回廊内の僧侶、僧兵達が篝火を集めて亥介達の姿を求めつつ、老僧が指し示した場所に出鱈目に矢を射込む。回廊外の護衛も回廊内に集まる篝火と矢唸りを頼りに亥介達の足元に集まる。 ―囲まれる。  亥介は回廊の外側に向けて高々と着衣を一枚だけ脱ぎ捨てる。空中に舞った亥介の着衣を賊と誤認した回廊外の護衛達が雄叫びを上げながら、その布切れに無数の矢玉を浴びせる。護衛達の意識を逸らしている間に、亥介と総馬は腹這いのまま素早く屋根の上を移動し、先刻の突風で篝火が消えたままの中門外側にある小さな植込みの闇溜まりに静かに着地し、寺域の騒擾を背中に感じながら、四天王寺をあとにする。  寺域の外に広がる漆黒の闇の向こうを、二人は目を凝らし、先刻の老僧の存在を探る。しかし、闇の向こうには静寂だけが広がっていた。  亥介達は小屋に戻り、清太と弥臓に老僧の妙技を始め四天王寺の中心伽藍で起こった出来事を詳細に報告した。 「伽藍全体に妖術をかけ、宝剣を盗み出し、最後には亥介と総馬の存在を僧兵達に告げて、自分の退去を容易にするとは、心憎いばかりの施術だ。」  亥介と総馬の表情は固い。 「老僧は自分の

学び舎は…

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社会人になって20年も経過すると、卒業した学校が徐々に姿を変えていきます。 高校は自分が3年生の時に建て替え工事が終了し、自分の下の学年から新校舎に移動しました。工事の騒音と埃に悩まされた記憶はあまりありませんが、得をした世代ではないなぁと思います。 さて、久しぶりに母校(大学)に行く機会があったので、当時、自分の通った研究室があった建物に足を運んでみました。 当時は、土木工学科が入っていた建物なのですが、いまは工学部ごと郊外の新キャンパスに移ったため、人文系の研究施設が入っているようです。 耐震補強が行われていて、外観が多少マッシブになっていました。大人数授業用の階段教室には自動ドアがついているのか、少し入口の様子が変わっています。 この階段教室はいまでも土木工学科が使っていると聞いています。 この階段教室の下が実験室になっていたのですが、いまはどんなふうになっているのか。興味が湧きましたが、建物内に入ると怒られそうなので、残念ながらあきらめます。

掛川神社(高知市薊野)

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土佐神社(一宮神社)に向かう途次、道路脇に「掛川神社」という看板を見つけたので、帰路に立ち寄ってみました。 その名称から想像するに、土佐藩主山内家が土佐に入部する際に、以前の所領であり、関ヶ原合戦の戦功の契機となった遠江掛川から分祀したのではないかと思われます。 主要道路を曲がると自動車が通れる舗装された参道があり、前方には石段が見えます。 参道脇に駐車場スペースがありました。 鳥居を潜り、石段を上ると、中間地点付近に手水鉢と社務所らしき建物があり、さらに上ると本堂があります。 本堂は小さな独立丘陵の頂上を造成して平地にしていますが、本堂の大きさにしては比較的大規模に造成しており、本堂以外と管理所以外に大きな建物がないことと相まって、雑木林に囲まれた境内としての空間は広く感じられます。 同神社の由緒は、石段下にある看板に拠れば、以下のとおりです。 ========================= 江戸時代の寛永十八年(1641)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭大王を遠州掛川から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめてである。以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(1866)現社名に改称した。 合祭神社中、瀧宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、いずれも明治三二年(1899)合祭した。 東照神社は延宝八年(1680)四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(1814)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、明治元年東照神社と改称、明治十三年(1880)に合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋“三ツ葉葵“がつけられている。 社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも現在東京国立博物館に寄託されている。 飛地境内として椿神社・秋葉神社がある。 ========================= わたしは、山内一豊が旧領掛川時代の家臣と、新規採用の家臣団を伴って、新領土佐に入部した際に、山内家の繁栄鎮護のために、この掛川神社を勧請したものと想像していましたが、少々違っていたようです

峡の劔:第六章 四天王寺(1)

 亥介と総馬は天王寺砦に入って以来、日々、四天王寺に赴き、日中は寺の周囲から境内の建物や庭の造作、樹木や置物の配置などを調べ、夜更けになると境内へ侵入する。  神社仏閣における宝剣盗難を伝聞している四天王寺では、陽が沈むと偸盗の侵入に備えて多数の篝火を焚き、僧侶、僧兵が境内を巡回して不審者を厳重に警戒する。逆に言えば、これらの行為は四天王寺に宝剣があることを示唆しており、亥介達が四天王寺に日参している理由もそこにあった。亥介達は警戒の間隙を縫って、毎夜、灌木や建物の影などに潜みながら、偸盗の出現を待つ。  この日も、薄雲に霞んだ眉月が瀬戸内の細波立つ海面に沈み、暗い夜空に無数の星々が明滅する。夜半を過ぎれば、肌に触れる涼感を帯びた微風が秋の到来を感じさせる時節だが、今夜の四天王寺は多量の湿分を含んだ不快な生暖かい空気に覆われている。 「今宵はことさらに蒸せる。」  総馬が額に滲む汗を拭いながら、小声で呟く。亥介と総馬は百を超すであろう僧兵達に厳重に警備されている四天王寺の中心伽藍を囲む回廊の瓦屋根の上に俯せて、伽藍内部の様子を窺っている。 ―昨夜までとは何かが違う…。  二人は怪異の予感に、 ―臨兵鬪者皆陣裂在前。 の九字を唱え、邪気を払う。  中心伽藍の僧侶、僧兵達は不自然に上昇する暑気に、ある者は全身から噴き出す汗を幾度も拭い、ある者は扇子をあおぐ。時間の経過とともに、僅かに涼を与えていた微風さえも停止する。中心伽藍内部の不快が極大に達し、下品(げぼん)な僧兵達は襟を寛げて素肌を露出し、一部の者は口渇に耐えられずに水を求めて持ち場を離れる。  突然、烈風が起こり、伽藍内に蓄積した湿分と暑気、さらには、伽藍内に残留していた僅かな警戒心を吹き払う。 ―何かが始まる。  亥介と総馬が中心伽藍を見つめる。  再び烈風が中心伽藍を吹き抜け、中心伽藍の正面入口に当たる中門で燃え盛っていた篝火を掻き消す。中門の足下にできた闇溜まりに、突如、湧出した老僧が中門を固めている屈強な僧兵に歩み寄る。声を掛けられた僧兵は老僧の出現に何の疑念も持たず、先導して中心伽藍の内部へと案内する。 ―面妖な…。  外部から見ている亥介と総馬にとっては明らかな異状である。  僧兵に先導された老僧は、耿々と周囲を照らす篝火の中、中心伽藍を警護する僧侶、僧兵達に慰労の言葉