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1月, 2012の投稿を表示しています

鴨の家族は共同生活?

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最近、自宅の近所の川で、通勤時や朝ランの途中に、鴨の家族を見かけます。 親鴨らしき鴨が4-6羽、子鴨っぽいのが4-8羽ほど川の中を悠々と泳いでいます。 あと、おまけではないですが、白鷺がいつ1羽、近くにいます。 鴨って面白いですね。 1羽が水面に頭を突っ込むと、周囲の鴨も同じように頭を突っ込みます。また、泳ぐときはいつも何羽かが群れを作って動きます。 あと子ガモ達が固まって遊んでいると、なぜか白鷺がそっと近づいてそこに頭を突っ込みます。子ガモがいるところに餌があるとおもっているのでしょうか? そうだとすれば、白鷺くんはサボりすぎですね。 さて、この鴨くんたちですが、どうみても親ガモが複数ペアいるような気がします。 鴨くんたちは共同生活するのでしょうか? はた目に見ていると、親同士が友達で、子供同士で遊んでいるような感じに見えました。 ちなみに、鴨の夫婦は仲がよいですね。本当に、片方が何かをすると、もう片方が同じ行動をします。 朝ランの途中に鴨くん達の写真を撮ってみました。 右端の方にサボり屋の白鷺くんも映っているの、分かります?

iTuneStoreに接続できません(2)

長い間、iTuneStoreに接続できず、困っています。 拙者司空はNorton360のユーザーなので、SymantecのHPを見ながら、以下の対策を行いました。 ①Norton360のスマートファイアウォールの設定にあるプログラムルールにiTune.exeとiTuneHelp.exeを追加し、外部への接続を許可しました。 これでも復活しません。 ②Norton360の最新のウィルス定義ファイルをダウンロードして、システムの完全スキャンを実施しました。 これでもまだ復活しません(T_T) こうなると次はチャット形式のオンラインサポートに突入となりました。 Symantecの技術者の方とやり取りし、まずは、問題を切り分けするということで、Norton360のスマートファイアウォールを無効にして、iTunesを立ち上げ、iTuneStoreに接続してみましたが、これも成功しませんでした。 Symantecの技術者の方から、Nortonのファイアウォールを解除しても接続できないということは、Norton以外の問題である可能性が高いとの回答。 ということで、再び、AppleHPから「ExpressLine」を利用して、質問中です。 また、進展があれば、ブログにアップします。

950(1578)_==天正6年==【旧版】

是非、最新版でお楽しみください(^^)/ >_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正6年(1578)1月1日、織田信長、安土において諸国の大名の祝賀を受ける。  天正6年1月2日、播磨利神城の別所定道(治定の孫)の代に天正5年の上月の役を向かえたが、病弱な定道は勝算のない戦いを無益に感じて人質を差し出して和を乞うたという。しかし、その弟の日向守林治は好戦的で、上月城の守将となった山中鹿之助に挑戦し、これに憤った山中鹿之助は同城を攻めて横坂、甕岩の1戦で別所軍を大いに打ち破った。⇒山中鹿之助は京都に上っており、事実でない可能性大?  天正6年1月6日、織田信長、正二位に叙せられる。  天正6年1月7or8日、明智光秀、坂本にて津田宗及と茶会。  天正6年1月末、尼子勝久/山中鹿之助、上月城を宇喜多勢から奪回。  天正6年1月、吉川元春が月山富田城に入城。但馬/丹波の国人衆との連携強化を図る。しかし、別所長治の織田家への謀反により東播磨の情勢が変化したため、目標を播磨に変更。特に孤立化した上月城を攻撃目標とした模様。  天正6年2月、播磨三木城主別所長治が織田信長・羽柴秀吉を裏切り、毛利方に寝返る。  天正6年2月上旬、宇喜多直家、5千の兵力を上月城(城兵は5百程度)に投入し、攻撃。尼子勢(尼子勝久、山中鹿介ら)は羽柴秀吉の命により上月城を捨て、退却。宇喜多直家、上月村出身の上月一郎景貞を在番とし、城兵2千を預ける。  天正6年2月23日、羽柴秀吉が播磨に帰陣。加古川の糟屋内膳武則の城を借りて1部の軍勢を入れ上方との連絡の拠点とし、秀吉自身は書写山に本陣を据える。//直後、三木城別所長治が反旗を翻し、毛利方につく。別所長治の離反は東播磨の国人衆に大きな影響を及ぼす。  天正6年3月6日、羽柴秀吉は三木城攻城戦の本陣を書写山円教寺に移陣。⇒「播州円教寺記」には、「老若上下方々に馳せ散り、坊舎仏閣、1時に破損す」とある。  天正6年3月、明智光秀/細川藤孝が丹波に再度進攻し、波多野氏の八上城を攻囲を開始。//織田信長自...

司空流 讃岐國のうどんすき

讃岐國出身の拙者司空が『うどんすき』だと信じる鍋料理をご紹介します。 インターネットなどで調べてみると色々な『うどんすき』があるようですので、あくまでも讃岐國生まれの司空流ということで、ご承知おきください。 【レベル(あくまでも個人的見解)】 ・準備:★★★★☆ ・時間:★★★★☆ ・技術:★★★☆☆ 【準備するもの(それぞれの分量は人数や好みで調整してください)】 基本的には水炊きと同じような感じです。以下、最近作った我が家(五人家族)のうどんすきの例です。 (具材) ・豚肉…500g ・豚ミンチ…300g ・もめん豆腐…1丁 ・舞茸…1パック ・油揚げ…1枚 ・玉ねぎ…2分の1 ・生姜またはにんにく…少々 ・大根…4分の1本 ・長ネギ…2分の1 ・白菜…4分の1個 ・水菜…2-3束 ・うどん…3玉 もし、経済的に余裕があるなら、車海老や蟹、ホタテ貝、貝柱、白身の魚などもgoodです。 (出汁) ・出汁昆布…長さ5-10cm ・鰹節…2つまみくらい ・醤油…少々 ・塩…少々 【作り方】 ・鍋に水を入れ、昆布を入れます。拙者は煮込んだ昆布が大好きなので、昆布をハサミで幅1-5cmくらいに切って出汁をとり、そのまま煮込んで食べちゃいます。 ・ボールに豚ミンチと玉ねぎのみじん切り、すりおろした生姜またはにんにくを入れて、混ぜ合わせ、肉団子の材料を準備します。 ・豆腐は6-8等分に、油揚げは幅5-10mmの短冊に、舞茸は石突きを切り落として食べやすい大きさにほぐし、長ネギは幅1cmくらいで斜め切りに、大根は厚さ1cm弱で半月あるいはいちょう切りに、白菜は幅3-4cmくらいに、水菜は長さ4-5cmに切っておきます。 ・材料を切り終わるタイミングで、先程の鍋に鰹節や醤油、塩を入れ、火にかけます。ここで出汁の作り方です。関西風のかけうどんの出汁(色の薄い奴ね!)を作る要領です。拙者のうどんすきの定義はかけうどんの出汁で鍋を作り、そのあとの出汁でうどんを食すというものです。 ・鍋が沸騰したら、きれい好きの人は鰹節をすくいとってください。拙者はきれい好きではないので鰹節はそのまま入れておきます。 ・沸騰した鍋に、肉団子の材料を形を整えながら、投入します。 ・引き続き、豚肉を投入し、煮たったら、あくをとります。 ・...

関東・東海は空から見ても雪景色

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拙者司空は昨日東京に行っておりました。 昨晩9時前後から雪が本降りとなり、都内の某所では拙者のみた限りでは1時間くらいの間に3センチ近く積もっていました。 —明日は都内の交通は麻痺かなぁ。 と思いつつ、ベッドに入ったのですが、…。 朝起きれば、天気は快晴! 拙者が宿泊した都内某所では、道路や歩道の雪もほとんど融けてました。 関東でも北の方は大変だったかもしれませんが…。 さて、本日は帰路の飛行機から雪景色の関東平野と東海地方の山並みを撮影してみました。 本当は富士山を撮影したかったのですが、飛行コースが富士山の真上だったようで、撮影を断念しました(T_T) でも、雪で薄化粧した関東平野や雪帽子をかぶった八ヶ岳、駒ヶ岳らしき山々、山脈などがみえました。 一枚目の写真はおそらく、所沢や八王子あたりです。白い薄化粧が印象的でした。 二枚目は甲府盆地だと思いますが、あまり積雪が感じられません。 三枚目は赤石山脈の白根山、駒ヶ岳とその向こうに八ヶ岳らしき鋭峰が見えます。 四枚目は木曽山脈の駒ヶ岳周辺。 最後の五枚目は遠くに聳える飛騨山脈の御嶽山と乗鞍岳と思われる山々です。 雪山を眺めていると、スキーに行きたくなりますね。 ちなみに、ANAの機内雑誌「翼の王国」の特集に「天から送られた手紙」というのがありました。雪の結晶について研究された中谷宇吉郎先生を中心とした話しでしたが、その研究の舞台となった北海道の最高峰旭岳! その雪はパウダースノー以上の雪質で、スキーで滑ると何の抵抗もなく、まるで空中に浮かんでいるような錯覚を受けると書いていました。ただ、その雪質に出会えるチャンスはなかなかないとか。 でも、中四国の雪に比べれば、考えられないさらさらの雪なのでしょうね。 北海道最高峰『旭岳』、50歳までに絶対行きたいです。

ごく一般的中年夫婦の将来図

最近、女性の社会進出の機会が増えて多いに結構だと思います。 パートに出る奥様方も多いですよね。 そうなると当然家事は夫婦で分担しないといけません。奥さんが働きに出るならば、当然、お父さんは何も家事を分担すべきです! そういう世相もあり、また、イケダンなんて言葉も出来たりして、家事ができる男子が増えているような気がします。 かく言う司空も、毎朝息子と自分の弁当(昨晩の夕食の残り+α)を詰め、家族の洗濯物を洗って干し、仕事から帰れば、可能なら子供の習い事の送り迎え(全体の三分の一くらいかな)、洗い物が残っていれば夕食の後片付けをしています。ちなみに、週末の食事はほぼ司空の担当です。 ちなみに、ちなみに、我が家の奥さんが、遅い時間に仕事から帰った司空の夕食を温めてくれることなどは、めったにありません(T_T) いかんですね。愚痴っぽい。 そういうことを言いたいのではなく、世の男子、老後に向けて立ち上がりましょう。 子供が五十歳で巣だったとすれば、あと10年、今のご時世なら15年働かないといけないかも知れません。 子供が巣立ち、五十歳で夫婦それぞれ独立すれば、それ以降の収入も年金もそれぞれで自由にできると思いませんか。 今の男子はそれだけの実力を備えることができると思います。 我々の父親世代は料理もできず、掃除もできず、濡れ落ち葉やら、熟年離婚やら、過酷な状況に陥った方々も少なくないのかも知れません。 でも、これからは時代が変わるかもしれません。 我々は家事を出来るようになりましょう。 そして、子供が巣立てば、夫婦それぞれで自由に楽しむ道を選ぶというのも、よい選択肢の一つだと思います。 お互いに干渉されず、自分の好きなことができるのですから、最高でしょう(^^)/

豚の生姜焼き風インスタントラーメンのトッピング

【難易度(あくまで個人的な見解)】 準備:★★☆☆☆ 時間:★★☆☆☆ 技術:★★☆☆☆ 今日は子供達の日曜参観があったので、昼御飯は簡単にインスタントラーメンで済ませました。 インスタントラーメンだけだと、味もそっけないですし、栄養的にも偏りがあるので、簡単に豚の生姜焼き風のトッピングを調理しました。 あくまで簡単に手間をかけないというのが目標です。 【特に準備するもの(3〜4人分)】 ・豚細切れ…300-400g ・玉ねぎ…1ヶ ・しょうが…少々 【作り方】 本当は下ごしらえをきちんとしたら美味しいのでしょうが、簡単に作るというのが主眼ですで、その点をご承知おきください。 ・フライパンに少し油をひいて、豚肉を火にかけます。 ・しょうがをおろして、直接、フライパンの中の豚肉と混ぜます。 ・醤油を大さじ2-3杯くらい、みりんを大さじ1-2杯くらい入れ、豚肉と混ぜながら炒めます。 ・豚肉に火が通ったら、厚めに千切りした玉ねぎをフライパンに入れ、一緒に炒めます。このとき、水分(醤油やみりん)が少なくなって、こげそうになっていたら、醤油・みりんを適量追加してくださ。 ・豚肉に完全に火が通り、玉ねぎがしなっとなったら、できあがり♪ インスタントラーメンにトッピングして召し上がってください。 別にこのまま食べても、丼ぶりにして食べてもOKですよ(^^)/

祝:Shikuuつぶやきアクセス1000件突破

 7月にブログを開設してから半年が経ち、ついにアクセス数が1000件を突破しました(^^)/  しかし、半年で1000件か…。  多いと言えば多いような気もするし、少ないと言えば少ないような気がしますね。  まだ、目玉的な内容がないんですよね(*_*)  年表が目玉になって、小説を読んでくれる人が増えればいいなぁ…。  あとは料理とジョギングネタで読者を増やせるといいんですけどね。

950(1577)_==天正5年==【旧版】

20120507_修正しました。(三木城別所長治が毛利方に就いたのは天正6年でした) 20130527_上杉謙信関係の動きを追加 >_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正5年(1577)、宇喜多直家、主君浦上宗景が織田氏と結んだことを理由に天神山城を攻め落とす。  天正5年(1577)、宇喜多直家が天神山城を攻めて、浦上宗景を追放。(天神山城の落城については天正3年説と5年説があるが、天正3年説が有力か?)  天正5年(1577)2月9日、織田信長が雑賀攻略のために安土城を出陣し、上洛。//織田軍は総勢12万とも。  天正5年(1577)2月、織田信長自ら紀州雑賀一揆(石山本願寺の鉄砲隊の主力をなしていた)を討伐、3月半ば頃まで戦い、雑賀衆を降伏させる。  天正5年2月、羽柴秀吉、紀州雑賀衆征伐に、4400余の軍勢を率いて従軍。  天正5年、別所長治が、織田信長の紀州雑賀討伐に従軍。  天正5年(1577)2月13日、織田信長,紀州征伐のため,京都を進発。  天正5年(1577)2月15日、織田信長,紀州征伐のため,和泉に入る。//根来寺が味方し,貝塚(大阪府貝塚市)の一揆は潰走。  天正5年3月、上杉謙信が、関東諸将からの出陣要請を受け、出陣していた能登国から春日山城に戻る。//小田原城主北条氏政が関東の上杉方諸城を攻撃したため。  天正5年3月1日、織田信長,明智光秀・滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶らをやって,一揆の大将雑賀党鈴木孫一の居城を攻める。  天正5年、足利義昭・毛利輝元が、上杉謙信に宛てて、織田信長が紀州雑賀攻めに出陣し、京都奪還の好機であることを知らせ、上洛を促す。  天正5年3月2日、織田信長,鳥取郷(大阪府泉南郡)に陣を置き,堀秀政・不破河内らを根来口に向かわせる。  天正5年3月15日、織田信長が鈴木孫一ら雑賀衆に朱印状を発し、赦免を受け入れ。(3/21との説も)  天正5年3月21日、鈴木孫一・土橋平次らの七人の紀州一揆衆,織田信長に連署の誓書を出して,織田信長に下る。(3/15...

950(1576)_==天正4年==【旧版】

20120513_木津川河口の戦い(H4.11.6)は誤記のため削除しました! >_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正4年(1576)、播磨国人の三木城主別所長治が織田信長に従う。  天正4年(1576)1月、織田信長が右大将に昇任。毛利氏から祝いの太刀、馬などが届く。  天正4年(1576)1月、丹波国波多野秀治、織田軍に反旗を翻す。明智光秀は敗戦により退却。山中鹿之助、殿軍を務める。  天正4年1月中旬、毛利氏が上洛作戦に関して吉田郡山城で評定し、作戦を決定。  天正4年1月中旬、織田信長、安土城の築城を開始。(同年4月とも)  天正4年1月、吉田兼見、丹波にて敗戦の明智光秀を京都北白川に見舞う。  天正4年1月21日、明智光秀は丹波攻略中のところ近江坂本城へ戻り、兵の休息を促す。  天正4年1月、吉田兼見、近江坂本を訪れ、明智光秀と面会。  天正4年1月23日、織田信長、美濃岐阜から安土に移る。  天正4年2月6日、毛利元康/杉原盛重ら、尼子氏の属城因幡宮吉城を攻略する。  天正4年2月8日、足利義昭が紀州由良から備後鞆の津に到着。側室や上野重政、畠山昭賢、真木島昭光、武田信景、春阿弥ら側近・同朋衆20余名。⇒毛利氏に対して幕府再興のための挙兵を促す。上杉謙信に対しても新たに働きかけを始める。  天正4年2月18日、明智光秀、丹波攻略のため、再度、出陣。  天正4年2月23日、織田信長、美濃岐阜城下の佐久間信盛の屋敷から近江安土へ移る。  天正4年3月、原田直政,松永久秀の子久通が土市城(奈良県橿原市)に土市遠長を攻めた際に調停する。  天正4年3月11日、織田信長、吉川元春の歳首の礼に応え、山中鹿之助らを庇護しない旨を回答。  天正4年4月、織田信長が安土城の築城を開始(同年1月とも)  天正4年4月、石山本願寺が織田氏に対して和睦を破り、再度挙兵。この時、織田信長は荒木村重・細川藤孝・明智光秀・原田直政の四人を中心とした大軍を催し、石山本願寺攻略に向かう。石山本願寺方の戦意旺盛のため、その後、原田直政が討死...

iTuneでアップルストアにアクセスできません!

 iTuneでApple Storeにアクセスできません(T_T)  iPadで曲をダウンロードしているのですが、それを家族のiPodに移すことができず、困っています。  しかも、iTuneのヘルプを開こうとすると、以下のメッセージが出てきます。 *************** お使いのコンピューターがインターネットに接続されていないため、iTunes ヘルプは使用できません。 iTunes ヘルプを表示するには、まずインターネットに接続していることを確認し、次に [ヘルプ] メニューから [iTunes ヘルプ] を選択してください。 ***************  AppleのHomepageを確認したところ、 *************** Windowsのインターネットの設定でプロキシ接続になっていないことを確かめるべし! *************** とありましたが、拙者司空のパソコンはプロキシ接続ではなかったのでクリア!  さらに、iTuneのHelp機能の中にある診断機能を使ってインターネット接続の診断をしたところ、iTuneがインターネットに接続できないとのメッセージが出ました。  どうもウィルス対策ソフトがiTuneStoreへのアクセスを拒絶しているようだったので、ウィルス対策ソフトの設定でiTune.exeとiTuneHelp.exeのネット接続を許可するように修正しました。  これで解決かと思い、再度、iTuneの診断機能を使ってインターネット接続を診断したところ、 *************** 合格! *************** と出たので、”ラッキー"と思ってiTuneを立ち上げたのですが、アウトでした。  う~~んとAppleのHPとにらめっこしていたのですが、色々とAppleのHPを検索していると、iTune.exeやiTuneHelp.exeがアクセスする必要のあるURLがあるというような感じのことを書いていたので、ウィルス対策ソフト側で特定のソフトが特定のURLにアクセスする権限を与える必要があるように感じました。  光が差したーーー、と思ったところ、AppleのHPがメンテナンスのため見えなくなり、どのURLへのアクセスを...

はじめての20kmラン

2月5日の丸亀ハーフまでには一度20kmを走っておかないと、本番でどうなるかとても心配だったので、厳寒の中、意を決して20kmランにチャレンジしました。 拙者司空はどちらかというと周回ランが好きなのですが、今日は「絶対に20kmを走破する」ため、片道10kmの目標地点を決めて出発しました。 寒さのせいでしょうか、5km地点くらいから徐々にきつくなり、折り返し地点では既に足が上がりにくくなってきて、15km地点くらいから本当に足が前にでなくなりました。それでも死力を振り絞り、20kmを何とか走破(^^)v タイムは2:40:19でなんとか制限時間内にゴールできそうです♪ しかし、20kmでこれだけきついのにフルマラソンってどれだけしんどいんでしょうか? 拙者司空には想像がつきかねます。 でもいずれはフルマラソンに挑戦したいです♪

950(1575)_==天正3年==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正3年(1575)?月、石山本願寺が織田と一旦講和。  天正3年1月、羽柴秀吉が近江長浜城に入城。//この際に、地名を今浜から長浜に改名。  天正3年1月、毛利輝元、小早川隆景が備中松山城(三村元親)を開始。落城は5カ月後。  天正3年?月、織田信長が聖護院道澄を安芸毛利氏に遣わし、尼子残党の蜂起や三村元親の謀反は織田方によるものではないことを弁明。  天正3年(1575)2月5日、山中鹿之助、因幡若桜鬼ヶ城を攻撃。草刈景継が防戦。尼子勢が優位にたつも毛利勢の来援のため、退却。→これはおかしいかも。天正2年8月に若桜鬼ヶ城は尼子方の城となり、その後、鳥取城を逃れた尼子勝久/山中鹿之助が入城している。また、草刈景継は美作高田城主ではないか。ただ、天正3年5月に尼子勝久/山中鹿之助が若桜鬼ヶ城に入城したとの説もあり、天正2年8月-天正3年2月の間に、1度、毛利勢に落とされたのかもしれない。←  天正3年2月13日、明智光秀・村井貞勝、山城清涼寺に禁制を与える。  天正3年3月3日、織田信長、岐阜から上洛し、相国寺の慈昭院に宿泊。  天正3年3月23日、織田信長、塙直政を大和守護に補任する。  天正3年4月4日、明智光秀、二千余を率いて、河内高屋城に出陣。  天正3年4月4日、明智光秀・柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益の連署で、片岡弥太郎(河内交野城主)という者に宛てて、「貴国衆はこの節馳走肝要である」旨を書状で伝える。  天正3年4月6日、織田信長、三好康長の河内高屋城ならびに石山本願寺を攻めるため、1万余を率いて出陣。  天正3月4月8日、織田軍、摂津(河内?)高屋城と石山本願寺を攻撃。  天正3年4月9日、三好康長、織田勢に降伏。  天正3年4月12日、織田信長、住吉に着陣。  天正3年4月13日、織田信長、石山本願寺を目標として、天王寺に進出。  天正3年4月14日、織田信長、石山本願寺(大坂城)を攻める。(4/19まで摂津在陣後、4/21に京都に帰着) ...

950(1574)_==天正2年==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正 2 年 (1574)1 月、織田信長、正月の祝宴に浅井久政、長政父子および朝倉義景の薄濃にして肴に出す。  天正 2 年 (1574)1 月 3 日、山中鹿之助、尼子勝久を奉じて再び因幡国へ侵攻。同行した部将は立原源太兵衛久綱/神西三郎左衛門/加藤彦 5 郎/亀井茲矩/吉田三郎左衛門/森脇市正/横道源介/横道権ジョウ/牛尾大炊助/足立次郎左衛門/足立治兵衛/進左吉兵衛ら。山名豊国の援助を受ける。尼子勢は伯耆への侵入後、 13 箇所の城を落とし、旧交のある浪人達が馳せ加わり、勢力を増大。  天正 2 年 1 月、尼子勢は毛利方の大坪甚兵衛一之が安芸に赴く事を知り、山中鹿之助が途中の鳥取辺りの雁金山の麓で待ち伏せし、大坪らを襲うも、山中鹿之助待ち伏せの知らせを受けていた大坪が小勢ながらも奮戦し、山中鹿之助が敗北。 // 山名豊国は何度も毛利と尼子を天秤にかけて寝返りを繰り返し、背腹常なく、最終的には家臣に追放されることになる。  天正 2 年 1 月 5 日、山中鹿之助/立原久綱ら、私都城(城主大坪甚兵衛は安芸へ赴き不在?)を攻めるも、毛利方の在番牛尾元貞の抵抗により退却。>この時、山中鹿之助が林という在所に逃げたことから、大坪は笑いながら、「人に会いて林に入るは、鹿と云う名には応じたり」と嘲ったという。  天正 2 年 1 月、織田信長,明智光秀に大和多聞山城を守らせる。  天正 2 年 1 月、武田勝頼,東美濃に侵攻。  天正 2 年 1 月中旬、三条西実澄,明智光秀を大和多聞山城に訪ねる。  天正 2 年 1 月 19 日、織田方の越前守護前波吉継が富田長繁に攻め殺される。  天正 2 年 1 月、越前の諸将が一向一揆に加担し、越前の国境が騒然となる//羽柴秀吉は織田信長のもとに浅野弥兵衛を派遣して、越前国境の騒乱を注進しつつ、独断で若狭衆を率いて出陣//使者の浅野弥兵衛に山中鹿之助のことを伝言毛利氏が播磨浦上氏を調略する気配あり。武田氏や石山本願寺のこともあり毛利氏との直接対...

親鳥と玉ねぎのスープ

【今回のレベル(あくまでも個人的見解)】 ・時間:★★★☆☆ ・手間:★★☆☆☆ ・技術:★★★☆☆ スーパーで親鳥が3割引になっていたので、早速購入して玉ねぎのスープを作りました。 【準備するもの(4〜5人分)】 ・親鳥…1枚(もも肉だったと思います) ・玉ねぎ…1ヶ ・大根…3分の1〜4分の1 【作り方】 ・中くらい大きさの鍋に水を六部目くらい入れ、火にかけます。 ・親鳥をだいたい5mm前後の大きさに切ります。親鳥は固いので細かく切っておいたほうが食べやすく、また、出汁もよくでます。 ・お湯がそこそこ沸いたら、切った親鳥を入れます。あくが出るようなら、1〜2度取り除いて下さい。 ・玉ねぎは少し厚目に千切りして、鍋に投入。大根は1cm前後のサイコロ切りにして、これまた鍋に投入します。 ・醤油とみりん、塩で味を整えます。 ・時間をかけて煮込むとオニオン風味がよく出ます。煮込み時間を少なくすると鶏風味が強いチキンスープになりますよ♪どちらも甲乙つけがたい味わいがありますので、機会があれば両方試してみて下さいねp(^^)q

950(1573)_==天正1年(元亀4年)==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  元亀 4 年 (1573)4 月、天正に改元。  天正 1 年 (1573) ? 月、吉川元長が、旧名の元資から元長に名乗りを改める。  天正 1 年 (1573) ? 月、この頃の伯耆の有力者は南条氏。南条氏は佐々木源氏の庶流で、 14 世紀頃に南条氏の祖伯耆守貞宗が伯耆河村郡羽衣石に羽衣石城を築城したことに始まる。南北朝/室町期には東伯耆にまで勢力を伸長。羽衣石城から数㌔離れた長和田に城下町を形成。  天正 1 年 (1573) ? 月、織田信長が羽柴秀吉/武井某に命じ、小早川隆景宛に書状。小早川隆景から因幡/但馬の情勢について報告を受け、近日中に京都に入り、但馬出兵の日限を毛利方に連絡するという内容。 ⇒ この時期、織田信長は伊勢一向一揆の鎮定に当たっていたため実質上但馬出兵は無理だった。  天正 1 年 (1573) ? 月、山中鹿之助、立原久綱ら、織田信長に接見。>はじめ柴田勝家を通じて織田信長に援助を願った(同年 12 月 12 日付け安国寺恵瓊の書状より)とも、明智光秀を頼ったとも>最終的には、明智光秀を頼ることになり、明智光秀の先陣を命じられた>織田信長は尼子氏への援助を約しながら、毛利氏にはこれを断ったと回答。  天正 1 年 (1573)? 月、宇喜多直家、沼城から石山城に移る。 // この頃の直家は天神山城浦上宗景の重臣。亀山城を弟春家に守らせる。  天正 1 年 ? 月、宇喜多、毛利が同盟。  天正 1 年 2 月、足利義昭、織田信長に反旗を翻す。  天正 1 年 2 月 6 日、山城国岩倉の山本・渡辺・磯谷ら、織田信長に背く。  天正 1 年 2 月 10 日、山城国岩倉の山本・渡辺・磯谷ら、織田信長と戦うため、近郷に在陣。  天正 1 年 2 月 11 日、吉田兼見、明智光秀に使者をやり、陣中を見舞う。  天正 1 年、足利義昭,松永久秀・三好義継と和睦。  天正 1 年、織田信長,朝山日乗・島田秀満・村井貞勝の三人を足利義昭の所にやり,人...