950(1579)_==天正7年==【旧版】


>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_<
>_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<




 天正7年、安国寺恵瓊が東福寺退耕庵の庵主となる。
 天正7年(1579)1月、織田信長,明智光秀・細川藤孝を安土城に呼び,丹後平定の功を賞し,光秀の三女を細川忠興に,四女を織田(津田)信澄に嫁がせるよう命じる。
 天正7年2月18日、織田信長、上洛。半月ほど京に滞在し、鷹狩りなどを楽しむ(織田信長合戦全録より)
 天正7年2月28日、明智光秀、丹波攻略のためその策源地である亀山城(京都府亀岡市)に向け、居城の坂本城を進発(織田信長合戦全録より)
 天正7年(1579)3月、秋上綱平(同姓庵介久家の父)病死。この時すでに秋上庵介は鬼籍に入っていた模様。
 天正7年3月5日、織田信長、嫡男信忠などを率いて摂津有岡城に出陣のため、京都を進発(織田信長合戦全録より)
 天正7年3月、宇喜多直家、毛利氏を離反し、織田方に就き、3星城を攻撃(織田信長合戦全録より)
 天正7年4月、織田信長が嫡男信忠を主将として播磨三木城攻めの援軍を派遣(織田信長合戦全録より)⇒織田信忠は三木城の周囲や敵城淡河城に砦を築くとともに、小寺政職の御着城を攻撃して摂津に帰陣(織田信長合戦全録より)
 天正7年5月1日、織田信長、摂津有岡城攻囲戦より帰洛(織田信長合戦全録より)⇒摂津では鷹狩りを楽しんだり、箕面の滝(大阪府箕面市)を見物(織田信長合戦全録より)
 天正7年5月5日、明智光秀、波多野氏の支城であった丹波氷上城(城主波多野宗長)を落とす。以後、八上城攻めに専念する。(織田信長合戦全録より)
 天正7年5月28日、明智光秀、八上城の波多野秀治兄弟と和睦?(前後の流れを十分に確認する必要)
 天正7年6月1日、明智光秀、丹波波多野氏の主城八上城を落とす。(織田信長合戦全録より)**餓死者が大勢出る状況になっても開城しようとしない城主をみて、城兵が城主を捕らえて明智光秀に引き渡したとされ、城主波多野秀治兄弟3人は6月6日洛中を引き回されたうえで、安土城で磔にされる。
 天正7年6月2日、波多野秀治、秀尚らが八上城を出て明智光秀のもとを訪れる。
 天正7年6月4日、明智光秀、波多野兄弟を安土へ進上。信長は波多野三兄弟を慈恩寺の町末に磔にかける。
 天正7年8月9日、明智光秀により1年以上包囲中だった丹波黒井城が落城。既に赤井直正は病死し、落城時の城主は赤井忠家(織田信長合戦全録より)
 天正7年9月2日、有岡城主荒木村重、僅か5、6人の供を連れて有岡城を忍び出て、息子村次の籠もる尼崎城に移る。***この時尼崎城には毛利氏の援軍として桂元将が来援しており、毛利方に援軍を乞うという目的があったものと思われる。おそらく荒木村重も有岡城脱出当初は逃げるという目的ではなかったのではないか。
 天正7年9月10日、播磨三木城に毛利氏/本願寺の援軍が到着し、平田にある谷衛好の砦を襲撃。谷は討死し、毛利/本願寺軍は平田を1時占拠するも、羽柴秀吉の反撃により7、8百を討たれ退却。
 天正7年10月15日、有岡城足軽大将4名が滝川一益の勧誘で謀反を企て、滝川隊を総構えの中に誘い入れる③
 天正7年11月19日、有岡城開城。荒木村重は尼崎城から出奔。
 天正7年10月30日、織田信長が宇喜多直家の帰順を認める。//この際小西弥九郎が仲介したとの説も。
 天正7年12月、織田信長、荒木一類を虐殺。

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