峡の劔:第十章 貴人(2)

 浦上氏は、室町幕府の重鎮赤松氏の配下にあって、播磨・備前・美作に勢力を扶植した。戦国期に入った明応五年(一四九六)、赤松氏の当主政則が急逝すると、浦上氏の当主村宗は政則の婿養子赤松義村を擁立し、播磨の別所就治らとともに赤松氏の実権を掌握した。しかし、備前・播磨・美作三国の守護職として実権の奪還を志し始めた義村と村宗は激しく対立し、衝突へと発展した。この争いに勝利した村宗は、義村を強引に隠居させて赤松氏の家督を義村の嫡子赤松政祐に相続させ、さらに数年後、義村を暗殺して、赤松氏の実権を掌握した。これにより浦上氏の最盛期が訪れた。
 その後、享禄四年(一五三一)に、室町幕府三管領の一家細川氏内部の権力争いに端を発した摂津大物の合戦で浦上村宗が討死すると、村宗の嫡子浦上虎満丸が一族浦上国秀の後見を得ながら、幼少の身で家督を相続した。しかし、村宗の討死を好機とみた山陰の尼子氏が、中国山地を越えて山陽に侵入し、播磨諸城を次々と攻略した。虎満丸は劣勢を挽回すべく仇敵赤松政祐と結んだが、退勢を挽回できず、天文八年(一五三九)には政祐とともに播磨を追われて和泉堺に落ち延びた。翌年、政祐は将軍足利義晴からその偏諱を賜り赤松晴政に改名し、浦上虎満丸は元服して同様に義晴から一字を賜って政宗と名乗り、その後、二人は将軍義晴の後ろ楯で播磨に復帰し、協力して勢力を拡大し、播磨に加えて備前を奪還した。しかし、天文二〇年(一五五一)、尼子晴久が再び美作・備前に侵攻すると、尼子氏との同盟を主張する兄政宗に対して、弟宗景は父村宗死後の混乱につけ込んで播磨を侵略した尼子氏との盟約を是とせず、兄弟は激しく対立し、宗景は毛利氏に与して備前天神山に拠り、播磨室津を拠点とする政宗との間で骨肉の争いを繰り広げた。
―宗景は織田方では…。
 清太が首を傾けるのを見て、弥蔵が、
「ここまでは天文、弘治年間の出来事でございます。」
と補足し、さらに続ける。
 宗景は安芸の毛利元就や備中の三村家親の支援を得ながら、政宗側に付いた備前・美作国人衆の攻略を進めた。
 永禄三年(一五六〇)に、尼子氏の当主晴久が急逝すると、備前・播磨国人衆が後ろ盾を失った政宗から次々と離反し、宗景に味方した。しかし、その後、宗景は美作の支配権を巡って三村家親と袂を分かち、家親支援に回った毛利氏との同盟を結果的に破棄した。
 ここで、三村・毛利同盟との対立に至った宗景と、毛利氏と敵対関係にある尼子氏に就いていた政宗の利害が再び一致し、兄弟は十年以上の闘争を水に流して、血と権力で穢れた手を取り合った。宗景と和睦した政宗は昨日までの盟友であり、主筋に当たる赤松晴政を強制的に隠居させた上で、晴政の嫡子義祐に赤松氏を相続させ、傀儡に仕立てて実権を掌握し、一層の勢力拡大を図った。放逐された晴政は西播磨で実力を蓄えつつあった龍野城主赤松政秀を頼って、備前を去った。
 浦上政宗はさらに本拠播磨の地盤を固めるべく、姫路で勢力を形成しつつあった黒田職隆の息女と次男清宗との婚姻を進めた。しかし、祝言当夜、赤松政秀に奇襲され、政宗父子が討死するという珍事が出来し、政宗の跡目は清宗の弟で幼少の誠宗が相続し、合わせて黒田職隆の息女との縁談を継承した。
 備前・美作の支配権を巡って浦上宗景と三村家親の抗争が激化する中で、浦上家の被官の立場にあった宇喜多直家が、永禄九年(一五六六)には、美作に侵攻した家親を討ち取るという大功を上げ、さらに、永禄十年(一五六七)には、三村氏を相続した元親を備前明善寺で撃破するなど数々の武功を挙げて台頭する。
 この時期、宗景は甥であり、浦上宗家の当主である誠宗を暗殺して浦上本家を乗っ取り、播磨への勢力拡大を狙った。
―また暗殺か。
 清太は山陽道を舞台にした陰惨な権力争いに辟易としながら、終わりの見えない弥蔵の話しを聞き続ける。
 永禄十二年(一五六九)、宗景は小寺政職と結び、西播磨に侵攻して赤松政秀を破り、竜野城を落とした。播磨を追われた政秀は同年に上洛を果たした信長の許に走った。これを庇護した信長は摂津の池田勝正や播磨の別所安治に浦上氏攻略を命じると同時に、宇喜多直家に触手を伸ばした。直家は信長の勧誘に乗り、宗景に謀反したが、宗景が備前・播磨の織田勢力を撃破すると、直家はすぐさま宗景に謝罪し、許されて帰参した。
「今と全く逆ではないか。益々、理解できぬ。」
 さらに首を傾げる清太を見ながら、弥蔵が、
「山陽道の離合集散は複雑怪奇です。」
と付け加える。
 この後、数年間、毛利氏は九州の大友氏との攻防に兵力を投入したため、播磨・備前にはつかのまの平穏が訪れた。しかし、毛利氏が大友氏と和睦すると、再び播磨・備前に対する毛利氏の圧力が増大し、これに耐えかねた宗景は足利義昭と信長に毛利氏との仲介を依頼し、元亀三年(一五七二)、和睦が成立した。さらに、宗景は、信長の勧めに従い、播磨三木城主別所長治とも和睦して播磨から手を引き、信長から備前・美作の支配権を認める朱印状を受領し、名目上、二ヶ国を得た。しかし、その裏側で、宇喜多直家は極秘裏に、浦上誠宗と黒田職隆の息女との間に生まれ、小寺氏に身を寄せていた浦上久松丸を密かに手元に引き取り、天正二年(一五七四)には久松丸を擁立して、再び宗景に反旗を翻した。
―仁義の欠片もない。
 清太は悪寒を感じる。
 宇喜多直家の謀反に対して、浦上宗景は過去に備前・備中の覇権を争った三村元親と結んで対抗した。しかし、二回目の謀反ということもあり、直家も周到に下準備と根回しをして、多くの国人衆を味方に付け、備中、備前、美作、伯耆などの支配強化を狙う毛利氏の支持も取り付けた。さらに、天正三年(一五七五)六月、毛利氏が三村元親を滅ぼし備中の支配権を固めると、備前でも毛利氏の支援を受ける宇喜多直家が勢いを増し、相対的に宗景の勢力は縮小した。そして、同年九月、遂に宗景は直家に包囲された居城天神山城を密かに脱出し、以前、赤松政秀と争うために盟約した由縁を頼りに播磨の小寺政職のもとに逃れた。宗景を追い落として備前を掌握した直家は、その後、浦上久松丸を毒殺し、名実共に備前・美作を掌中に収めた。
「ざっとこのような経緯です。」
 清太は、裏切りと暗殺の連鎖に、胸の中に苦い液体が逆流するような不快感を抱きながら、弥蔵の長く難解な解説を十分に理解できないまま、不得要領で頷く。
「山陽道の権力の移ろいはよく分らぬが、確かなことは、峡衆としてあの老人は助力するべきではない大悪人ということだな。弥蔵、安請け合いだったと思うか。」
 清太は宗景の不躾な態度を思い出しながら、弥蔵に向かって苦々しげに呟く。
「浦上の旧臣達が備前の山中に隠れて宇喜多直家を悩まして、毛利氏を牽制できるならば、間接的に重治様をお助けすることにもなりましょう。宗景は大罪人ではありますが、織田氏にとっては価値のある人物と言えるでしょう。」
 弥蔵は清太の感情に配慮して、宗景の護衛について否定はしない。
「世の中は綺麗事だけでは進んではいかぬと、理解しているつもりだが、…。」
 清太が小さく呟いた。

コメント

このブログの人気の投稿

【完結】ランニング、お食事 2022年5月~2022年12月

ランニング、グルメ、ドライブ 2023年4月〜

ランニング、グルメ、クライム 2023年7月〜