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瀬戸内国際芸術祭 in男木島(2):写真でーす

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瀬戸内国際芸術祭 in 男木島

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本日は男木島へ。 瀬戸内国際芸術祭を鑑賞しました。 まずは、フェリーで高松港を出港。 高松港から男木島港までは途中女木島港を経由して40分、大人往復1000円。 本日は土曜日ということもあり、フェリーは満席でした。 男木島港では白い化粧屋根のインフォメーションセンターがお出迎え。 男木島の港に降り立つと、早速、インフォメーションセンターでパスポートを購入。 年間を通して使える年間パスポート(5000円)と春用のパスポート(4500円)がありますが、夏も秋もおそらく鑑賞するだろうということで、年間パスポートを購入。 ちなみに、中学生以下は子供パスポートということで無料です。 パスポートはスタンプラリー形式になっていて、作品を見るごとにその作品番号のスタンプを押していきます。 ただ、男木島の作品のスタンプは全部○に男だったので、無人の場所で全部スタンプを押してしまうことも可能です。 しかし、そんなことをしても仕方がないので、とりあえず本日は真面目に全て作品を回りました。 とても素晴らしい作品ばかりで、なかなか面白かったです。 前回よりも作品の完成度や洗練度、作者の情熱が上がっていると感じました。 作品はほとんど男木島港から男木島漁港の周辺に集まっています。作品数は16ヶ。 屋外にあったり、古民家の中にあったりと、展示の方法は様々です。 一通り作品を回ったあとは、男木島灯台まで足を運びます。 男木島港から灯台までは徒歩で約20分。 男木島灯台といえば、映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台として有名です。 男木島灯台は今も現役で活躍中。 灯台の隣は資料館やキャンプ場になっています。 そこから、山道に入り、タンク岩、水仙の群生地、ジイの穴という洞窟を巡り、山道を降りて終了。 男木島港に戻ったのが16:00頃。 遅い昼食を食べる場所を探すも、16:00の段階では食堂、カフェとも閉店していました。 17:00発の最終フェリーで高松への帰路につきました。 帰りのフェリーも満席です。

950(1535)_==天文4年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文4年(1535)1月、安芸加茂郡で尼子方の平賀興貞が大内方で安芸白山城主の父弘保と弟貞景らの攻撃を受けるが、2月に和睦。  天文4年3月、毛利勢が備後三次の三吉氏属城三吉城を落とす。  天文4年3月、毛利勢が備後比婆郡上高野山の尼子方の多賀山通続を攻撃。多賀山通続は水の手を断たれ開城。//多賀山通続は反復常なかったが、一応尼子方の一大勢力だった。  天文4年、毛利元就、調略により備後比婆郡甲山城主山内直通を味方とする。//山内直通は尼子経久に背いた経久三男塩冶興久を匿い、最終的に経久の命で塩冶興久を自害に追い込んだことから、尼子氏としっくり行かなくなっていた。

磁場の井戸:第二章 舞台(五)/長編歴史小説

 夕刻の訪れと共に、宇喜多勢は和井元へと退いた。この日も、先日と同様、鉄砲戦に終始した。視界を妨げる白煙と、鼻腔を刺激する硝煙の臭いが、高松城の周囲を弛むように流れていた。 宇喜多勢は、城に向かって楯を並べ、その影を利用して、城兵に応射した。寄せ手、守り手とも物陰に隠れて、敵の影を狙った。 「寄せ手の死者二〇余かと。」 人目に付きにくい高松城の北側の山稜の杣道を、敵兵の影を避けるようにして高松城内へと潜入し、宗治の前に現れた七郎次郎が、宗治に知らせた。 (その程度のものだろう。) 宗治は七郎次郎に頷き返しながら、自分のこの日の戦の結果に対する読みが概ね間違っていないことを確認した。  宗治は、射撃戦において断然有利であるはずの城方の損害の大きさに、敵の巨大さを知った。味方は強固な城壁を頼りにして防戦し、敵方は貧弱な一枚の楯だけを頼りに城方と向き合った。にもかかわらず、織田勢の優勢な火力に、城内では百名近くの城兵が命を失っていた。 (押しまくられた。) という気持ちだけが宗治の胸中に残った。鉄砲の数で与えられる攻撃力と城壁や楯板で与えられる守備力との単純な足し算が、この結果を生んだことは、自分の心の中においてでさえも否定しようがなかった。高松城は敵との相対比較において、決定的に攻撃力が不足していた。  無言のまま、考え続けている宗治に向かって、七郎次郎は思考をとぎれさせることを詫びるような小さな声で言った。 「本日、宮地山城が落城、城主乃美元信様は織田方に城を明け渡し、陣を払いました。」 宗治は、七郎次郎の言葉が耳に入らなかったように、表情を変えることなく、月光のない薄闇を見つめていた。  七郎次郎は言葉を止めた。乾いた闇の中で二人の間に静寂が流れた。七郎次郎は宗治の言葉を待ちながら、息を潜め、気配を絶った。刻の経過とともに、闇の帳が、宗治と七郎次郎とが作る狭い隙間に滑り込んだ。  宮地山は険しい山の頂に造作された要害で、周囲は峻険な断崖に囲まれ、敵兵の接近を激しく拒んでいた。秀吉は宇喜多勢をして、何度かこの要害に力攻めを試みたが、要害に加え、城兵は城主乃美元信のもと一丸となって防戦し、敵を城壁にさえも近づけない奮戦を演じた。  これには宇喜多勢も辟易とし、秀吉も力攻めの愚を悟り、宮地山に対しては持久策を採った。秀吉は宮地山が山城であるこ

950(1534)_==天文3年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文3年(1534)1月、毛利元就と甲立五竜城主宍戸元源と和睦し、元源の孫隆家と元就の長女との婚約が決定。  天文3年7月、毛利元就、備後宮城主宮下野守直行の子元盛を下す。  天文3年、尼子経久は備後甲山城主山内直通を諭し、塩冶興久(尼子経久の三男で天文1年に経久に謀反し、直通の元に落ち延びていた)を自害させる。

950(1533)_==天文2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文2年(1533)、大内氏が石見大森銀山を尼子方から奪取し、吉田/飯田両氏を奉行として派遣//享禄4年に尼子勢に奪われていた。  天文2年(1533)、尼子氏が出雲日御碕神社に伯耆会見郡の山名氏旧領福田保/犬田村のうち51俵地利を寄進//尼子氏は社寺政策に相当の配慮を行っている。  天文2年(1533)、上条城(柏崎市黒滝)城主上条定憲方の長尾房長、中条藤資、新発田綱貞らが越後一の宮である居多神社(上越市)に乱入し、社殿などを焼く。  天文2年(1533)1月2日、一向宗徒が、細川晴元方の松井宗信が守る大物城を攻める。  天文2年1月23日、薬師寺国長と法華宗徒が、松井宗信の守る大物城救援のために京を出陣して、富田で一向宗徒と衝突し、敗退。  天文2年2月10日、一向宗徒が、石山本願寺を出陣し、堺を攻める。//細川晴元は小船で淡路洲本に逃げる。//本願寺証如が石山本願寺から堺の信証寺に移る。  天文2年、細川晴元が、将軍足利義晴から摂津平定の教書を請ける。//義晴は同時に摂津国人衆に細川晴元に協力するよう要請。//本願寺は幕府の逆徒となる。  天文2年2月14日、京の町衆が、浄土真宗の僧を間者として捕らえ、六条河原で斬首する。//京の町衆は大部分が法華宗。  天文2年3月5日、摂津の一向宗徒が、伊丹親興の守る伊丹城に攻め寄せる。  天文2年3月29日、木沢長政が、京の法華宗寺院から1万を動員し、摂津の伊丹城を救援し、一向宗徒を破る。//一向宗徒は5百人ほどが討死。//長政は敗走する一向宗徒を茨木辺りまで追撃し、さらに島下郡中を焼き払う。  天文2年、細川晴元が阿波衆6千を従えて、避難先の淡路洲本を発し、摂津池田城に入城。その後、芥川城に移り、畿内に号令して体勢挽回を図る。  天文2年4月26日、細川晴元方の4万の兵が、堺を占領する本願寺勢を攻める。//この陣中に11歳の三好千熊丸も出陣。//一向宗徒は敗走し、本願寺証如は大坂に逃れる。//信証寺は細川晴元勢により破却される。  天文2年5

B787 in Takamatsu Airport

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久しぶりの高松空港! 先般、コックピットから発煙して高松空港に緊急着陸したB787が駐機場の隅に止まっていました。 新聞等の報道ではバッテリーの不具合とのことですが、原因究明には至っていないとのこと。 米国ではバッテリーに対策を施した試験機のテスト飛行も始まる模様。 頑張れ、ドリームライナー! でも、最新鋭の技術を結集したといわれるB787でもこんな重大なトラブルが発生するんですねぇー。