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峡の劔:第二章 悪党と娘(1)

第二章 悪党と娘  清太達は吉野川河畔の道とは言いがたいほどにぬかるんだ土の上を進み、阿波鳴門に出たあと、鳴門海峡を渡海して淡路へ、さらに、明石海峡を渡って播磨に上陸し、山陽道を東へと進む。  鳴門・明石海峡の激しい潮流、山陽道界隈の賑わいなど、清太にとっては見るもの全てが新鮮だった。 「街道で囁かれる噂や道端に転がる世間話も中身によっては良い土産になります。」  弥蔵が清太に説明しながら、途次、往来する旅人達の会話を拾い集める。清太も弥蔵の助言に従い、心を空虚にして、敵味方の区別なく巷間の様々な噂を拾っていく。  摂津では、顕如上人を頂点とする一向宗徒が大坂本願寺、別称石山御坊の要害に拠り、織田氏への抵抗を続ける。住民の多くが石山御坊に籠城、あるいは、合戦を避けて逃散したため、近隣は荒廃し、人影は疎らである。清太達は淀川の本支流が複雑に入り組む沼沢地の向こうに石山御坊を攻囲する織田氏の砦群、さらに、その向こうに隆々と聳える石山御坊を望見しながら街道を行く。石山御坊を中心とする合戦は一進一退を繰り返し、巷間には百人十色の損得、嗜好、そして、贔屓に応じた勝手気儘な優劣が流布する。  四人は石山御坊を遠望したあと、伏見街道を京へと上る。  清太達の前方から十数人の集団が歩いてくる。これまで擦れ違って来た旅人達とは明らかに異質な空気を放つ一群は、清太の好奇心をくすぐる。道幅一杯に広がり、肩で風を切るように虚勢を張って近付いてくる一群の中心に彼らには不釣り合いな毛並みのよい一頭の馬が大きな荷袋を背にして常(なみ)歩(あし)で進んでいる。 「武家や寺社に銭で雇われる「悪党」と呼ばれる輩です。仁義を重んじる我々峡衆とは正反対に、恩賞次第で昨日の敵に味方し、夕には朝の主筋に弓引く、自己の利益だけで動く手合いです。関わり合いを持ちませぬように…。」  弥蔵が清太に小声で諭す。 「大した腕ではなさそうだが…。」  清太は呟きながら、弥蔵に言われたとおり彼らと視線を合わさず離合しようとする。しかし、馬と擦れ違った瞬間、清太の鋭敏な感覚がその背中に括り付けられている大きな麻袋から微かに零れる苦しげな呻き声を感知する。 「お待ちを…。」  清太が反射的に声を発する。悪党達は、その声が聞こえなかったかのように、淡々と進む。集団の最後尾を歩いている武士だけが、僅かに

秘境駅 土讃線の新改駅

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 特に秘境駅巡りを趣味としている訳ではないのですが、先日、たまたま土讃線の新改駅というところに行く機会がありました。  一部の事情通の方々には相当有名な駅らしく、スイッチバックという方法で駅に出入りするというのが、なかなか珍しいということです。  確かに、土讃線の本線から線路が分岐したところに駅があり、駅の向こう側で線路が行き止まりになっているので、この新改駅に入った汽車はおそらくバックで土讃線本線の線路に戻るというのが想像できました。  普通列車しか止まらないので、駅の入口にある時刻表もいたってシンプルです。  新改駅へのアクセス道路もたった1本で、その道路も新改駅で行き止まりになっています。  新改駅から山を下りたところに人家が散見され、廃校になった小学校を利用した公共施設もあるのですが、新改駅の周辺には民家はないため、この駅の利用者は自動車を持っている人しかいないのでは…、と感じてしまいました。  秘境駅のテレビ番組で取り上げられないかなぁ。 (新改駅の駅舎) (時刻表) (駅の奥は行き止まり) (駅から本線を望んでいます) (駅の看板です。しげとうと書いていますが、線路は行き止まっています) (駅の端っこまでいくと、よく本線が見えます) (時刻表)

峡の劔:第一章 峡(かい)(2)

 源平の昔、讃岐屋島で源義経に破れた平氏の主力が瀬戸内海を西へと落ちる中、平清盛の甥で、平氏随一の猛将と称された平国盛の命により四国に留まった一族があった。その一族は、国盛の寵姫となり、国盛の種を宿した同族の女性を守り、讃岐の山中へと逃げ込んだ。国盛は生まれてくるはずの赤子に自分の形見として一振の宝剣を授け、一族の長老に託した。  国盛から寵姫と宝剣を託された一族は老若男女五十人程の一団となり、源氏の追手や落武者狩りの山賊などを退けながら、讃岐国の南方に横たわる山嶺を越えた。それでも執拗な追跡を振り切れず、一族はさらに阿波の大地を東西に貫流する吉野川を渡河して、その南側に横たわる広大な山岳地帯へと迷入し、菜種梅雨に濡れる深い樹林を掻き分け、重く冷たい残雪と多量の湿分を含んだ腐葉土に足を取られながら、人間が容易に踏み入ることのない急峻な山岳の深奥に至った。一族の男達は寵姫と足弱な女子供達を守るため、年齢の順に殿軍(しんがり)して犠牲になり、源氏の追手を足止めして、逃走の時間を稼いだ。また、深い山中で冷気と残雪の氷結に足を取られて滑落した者、満足な食事を得られないまま罹患して落命する者なども出て、一団は二十名弱にまで減少した。そして、国盛の寵姫も雨中の悪路行と追捕という肉体、精神双方の緊張と圧迫により、赤子を流し、彼女自身も失意の底で息を引き取った。  残された一族が沈鬱な面持ちで、荼毘に付される寵姫の亡骸を、無言のまま囲んだ。荼毘の煙が、深い森の樹冠と枝葉の間を抜け、蒼天へ垂直に立ち昇る。それは天上から垂下された一筋の糸となって、寵姫の魂を天界へと導いているようだった。その煙の糸が尽きた頃、生き残った一族の最年長者が悲壮な口調で説き始めた。 「国盛様の命により、姫様とやや様を守護し奉り、源氏の追跡を振り切って、この僻陬の地まで逃れてきたが、お護りすべき姫様とやや様を失った以上、もう追手の影に怯えながら、逃げ続ける必要もあるまい。事ここに至った上は、この地に踏み止まり、襲来する追手を全力で迎え撃ち、一人でも多く地獄の道連れにして我々一族の意地を見せようではないか。」  長く苦しい逃避行で心身ともに衰弱した一族全員がその言葉に賛同した。  潔い死を選択した残党達は寵姫が息を引き取ったこの場所を拠点と定め、襲撃者に備えた。天空に向かって真っ直ぐに立ち上がる針葉樹

峡の劔:第一章 峡(かい)(1)

「小説家になろう」へ投稿開始 from 2019.01.11 第一章 峡 「嵐気が見える。」  一人の青年が頭上に広がる細く狭い碧空を見上げながら、何気なく呟く。  畑とは言い難い急峻な斜面に鍬を入れていた老婆が耕作の手を止めて、細面で鼻筋の通った若者の端整な顔立ちに視線を移したあと、彼の視線を追うようにその先にある空を見上げた。 「今夜は激しい嵐になるかもしれぬ。」  青年は仰首して、碧空に浮かぶ「嵐気」を漠然と見つめながら、老婆に語る。 「年寄りには何も見えませぬ。若様に見えている嵐気とはどのようなものですか。」  老婆が若者の横顔に視線を戻して、問い掛ける。 「わたしにも明瞭に見えている訳ではない。碧空が微かに揺らぎ、ごく小さく細波立つような気配のようなものかな。」  青年は老婆に優しく説明する。  「若様」と呼ばれたこの青年は幼少の頃から、屡々、天候や季節の変化を予感し、具体的な言葉に変換した。その言葉がしばしば的中したため、この小さな集落の住人達は、いつの頃からか、青年の日常の呟きを聞き拾って、天災地変に備え、農事や催事の適切な時期を得た。  この集落は、四国地方を南北に分断する険しい脊梁山脈の奥深く、西に向かって鋭利に尖った鏃のような形状を成す阿波国の、鏃で言えばその先端付近に位置する祖谷・貞光の秘境にあって、霊峰剣山を直上に望む山塊の中に、ひっそりと佇む。  集落の両側には急勾配の斜面が迫る。  古来、山々に囲まれた地形を「峡(かい)」と呼ぶ。  この集落の僅かな住人達は、いつの頃からか、自分達の住む山嶺に囲まれた小さな土地を「峡」という地形名称で呼ぶようになった。  峡の狭い碧空は、青年の呟き通り、夕刻から次第に低い雲に覆われ、雨天に転じたあと、夜半、颶風を伴った豪雨に変わり、早朝まで衰えることなく滝のように地面に降り注いだ。  翌朝、未明まで荒れ狂った暴風雨は終息し、再び透き通った碧空が峡の狭隘な頭上を覆う。  周囲の山々に視線を向けると、巨木が根元から薙ぎ倒され、山相の険しい斜面が崩壊して、赤茶色の山骨が焼け爛れたように露出し、泥土が大蛇の這った跡のように延々と流れ落ちる。それらの土石流の一つが、峡の住民が信仰してきた祠に達して、小さな堂宇ごと呑み込み、押し潰した。  堂宇の背後には岩盤をくり抜いた洞穴が

閑谷学校

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ヤクルト岡山和気工場の工場見学に行った後、近隣の閑谷学校に立ち寄りました。 ヤクルト岡山和気工場はパッケージングの工場で、ヤクルトの原液は兵庫の三木工場で生産されているということを初めて知りました。 乳酸菌シロタ株の説明、ビフィズス菌と大腸の関係など、たくさん勉強しました。 ヤクルトに含まれる乳酸菌シロタ株は小腸に、ミルミルに含まれるビフィズス菌は大腸に効果的であるという基本的なことを勉強しました。(間違っていたらすいません) 工場は自動化が進んでいて、機械・ロボットがどんどん作業を進め、ヤクルト容器の作成から、ヤクルトの調合とパッケージングを流れ作業で行っていました。 午前中1時間で工場見学が終わり、昼食を取ったあと、せっかくここまできたからと、観光名所を探したところ、「閑谷学校」を車で15分くらいのところに発見。 「閑谷学校」といえば、わたしは山田方谷と河井継之介を連想するのですが、具体的にどういうゆかりがあったのかを思い出せず、現地に到着。 「閑谷学校」のHPによりますと、 閑谷学校は江戸時代前期の寛文10年(1670)に岡山藩主池田光政によって創建された、現存する世界最古の庶民のための公立学校です。初めて閑谷の地に来観した池田光政は、「山水清閑、宜しく読書講学すべき地」と称賛、地方のリーダーを養成する学校の設立を決めたのです。この学校の永続を願う藩主の意を受けた家臣津田永忠は、約30年かけて、元禄14年(1701)に現在とほぼ同様の外観を持つ、堅固で壮麗な学校を完成させました。 とのこと。新緑の樹叢と芝生を背景に佇む閑谷学校の建物は古色を帯びて壮観です。 ぜひ、新緑の季節に訪れることをお勧めします。 ちなみに、山田方谷の説明看板に河井継之介が出ています。 岡山城下からはかなり距離があるのですが、どのようにして通学したのか…。

しまなみ海道(追補)

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平成29年11月頃、大三島周辺をランしたので、その際の写真を掲載! 冬の快晴をバックに斜張橋! 因島大橋だったかな。 いや、斜張橋といえば、多々羅大橋でした。 宿泊は民宿なぎさ。瀬戸内の海の幸をふんだんに使った食事が美味しくて、ボリューム満点。お腹いっぱいいただきました。 ランはなぎさに泊まった翌朝で、なぎさの駐車場に車を停めて、往復10km程度を目標に設定。結果的に片道5km程度で多々羅大橋を通過して、サイクリストの聖地と呼ばれる道の駅「多々羅しまなみ公園」に到着して、そこでUターンしました。 ランのあとは、汗を流すために多々羅温泉に入りました。 清掃・整備が行き届いた綺麗な温泉でした。 隠れた良心的温泉施設という感じです。

しまなみ海道

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しまなみ海道を尾道側から観光。 我が家の自動車のナビゲーションが古いので、山陽道を福山東ICで下りればいいのか、福山西ICで下りればいいのか、わかりにくかった。 結局、福山東ICで下りたため、結構、一般道を走ることになったが、結果論的には大きな渋滞に巻き込まれなかったので、正解だったかもしれない。(福山西ICの方はナビ上では渋滞マークがついていた) 道路標識がわかりにくいので、NEXCO様、少々改善の余地があるかも。 尾道大橋がかかる狭い海峡を渡ると、いま話題の向島。 高速バスの停留所には警察官が立っており、物々しい雰囲気。 改めて向島を眺めてみると、結構、町も大きく、それでいて山林も多いため、捜査が難航するのも分かるような気が…。 とりあえず、向島を通過し、布刈瀬戸に架かる因島大橋を渡って因島へ。 「万田酵素」で有名な「万田発酵」の工場見学に。 健康食品の「万田酵素」にも興味があったが、植物に与える「万田アミノアルファ」にも興味あり。 工場見学では、まずは基本の「万田酵素」の製造手順を聞き、その後、植物栽培の見学、直販店での試食をしました。 万田アミノアルファを使って育てた大根の大きさが感動的で、万田アミノアルファ1Lを約5千円で購入。 我が家の家庭菜園の夏野菜に早速使いたい。 その後、因島水軍城を観光。 水軍城なので海が一望できるのかと思いきや、海は視界に入らず。 ただ、かなり峻険な山城という印象を受けた。 大塔宮の令旨をはじめ、毛利家に所縁のある書状 や刀剣(銘正信)、甲冑など 展示品はかなり貴重なものも多いように感じました。 昼食はたべろぐで探索して、「萬来軒」でラーメン+チャーハン。 googleMapで調べると、幹線道路沿いにないようにも見えたのですが、きちんと幹線道路沿いにあり、駐車場も余裕があったので、すんなりと入店できました。 昔ながらの素朴な味わいのラーメンで、とても美味でした。 次は、生口島で平山郁夫美術館へ。 何度みても平山先生の深みのある青色と、鮮やかな黄色は 素人のわたしでも 本当に美しいと思います。 アンコールワットの月、しまなみ海道五三次、天かける白い橋瀬戸内しまなみ海道、破壊されたバーミアン大石仏などなど展示品をじっ