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ラベル(950(1573)_==天正年間==)が付いた投稿を表示しています

950(1581)_==天正9年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正9年(1581)、毛利軍が備中児島に侵攻。蜂浜(玉野市八浜)合戦、宇喜多勢を破る  天正9年(1581)、宇喜多直家が逝去。  天正9年(1581)1月10日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会。明智弥平次(秀満)の記載有り(宗及茶湯日記より)//場所は不明。  天正9年1月11日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会。(1/10にも同様な記載)  天正9年1月15日、播磨三木城主別所長治、羽柴秀吉に降伏を申し入れる。降伏の条件は城主長治と弟友之、叔父吉親の切腹とそれを引き換えにした城兵の助命。//播州三木城落城により周辺の魚住城、高砂城、御着城も前後して陥落。  天正9年1月20日、織田信長、2月の馬揃えのため上洛。宿所は本能寺。  天正9年2月、織田信長、京都で馬揃えを見物。  天正9年4月11日朝、明智光秀、細川忠興(長岡与一郎)の振る舞いにて、茶会。同席は、細川藤孝・里村紹巴・津田宗及・山上宗二・平野屋道是。  天正9年4月12日、細川忠興,明智光秀父子3人と茶会を開く。  天正9年4月15日、明智半左衛門、堅田にて津田宗及と茶会。  天正9年6月25日、秀吉、因州鳥取城攻めのため姫路城を出陣。  天正9年7月12日、秀吉、因州鳥取城(吉川経家)攻めを開始。  天正9年(1581)、吉川元長が、鳥取城救援に向かう。  天正9年10月6日、明智弥平次秀満,丹波天寧寺に書状を与える。  天正9年(1581)、羽柴秀吉、鳥取城攻略。吉川元長は後援に来ていたが、吉川元春の本軍の来援を待つ間に落城。城主吉川経家は自害。  天正9年10月25日、羽柴秀吉が鳥取城を落とす。鳥取城が落城。//秀吉は因州鳥取城を宮部継潤に守らせる。  天正9年11月8日、羽柴秀吉が鳥取城攻略を終え、姫路城に凱旋。⇒直後に織田信長は羽柴秀吉に四国と山陽道攻略を命じ、羽柴秀吉はその後直ちに淡路島攻略に着手。  天正9年、羽柴秀吉、毛利水軍の前線基地である淡路国の由良城と岩屋

950(1580)_==天正8年==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正8年(1580)、対馬の僧玄蘇、宗氏の依頼を受け朝鮮を訪問。  天正8年(1580)、佐久間信盛、織田信長から追放され、高野山に追われる。//この後、高野山も追放され、熊野の奥に蟄居を命じられる。  天正8年(1580)、林通勝、織田信長から追放される。//弘治2年(1560)に織田信長の弟織田信行を立てようとした罪にて。  天正8年(1580)1月6日、羽柴秀吉、自ら兵を率いて播磨三木城で最も高い場所にある宮ノ上砦を占領。以後、同砦から三木城を攻撃。城内は既に飢餓状態③  天正8年1月17日、播磨三木城主別所長治が自刃。  天正8年(1580)、羽柴秀吉、亀井茲矩に因幡国鹿野城の守備を命じ、毛利勢に包囲されつつもこれを死守。  天正8年2月、織田信長、村井貞勝に本能寺の修理を命じる。  天正8年4月、羽柴秀吉、西播州平定のため、姫路城を根拠地とし、三木通秋が守る英賀城と赤松氏の一族宇野祐清が守る長水山城を攻め、4月下旬から5月初旬にかけてこれらを陥落。⇒英賀城城下の町人・百姓の大半を除名し、姫路城下に呼び寄せる。長水山城落城時には、兄弟一類被官以下迄残らず斬首した(紀伊続風土記)とある。  天正8年6月24日、長宗我部元親、明智光秀を奏者として鷹16聯と砂糖3千斤を織田信長に贈る。  天正8年8月2日、本願寺顕如、教如父子が石山本願寺を織田信長に明け渡す。⇒その後、父子は紀伊に移る。  天正8年8月2日、織田信長が石山本願寺に火をかけ、焼亡。  天正8年10月18日、羽柴秀吉、播州龍野で楽市楽座を認める文書を発行

950(1579)_==天正7年==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正7年、安国寺恵瓊が東福寺退耕庵の庵主となる。  天正7年(1579)1月、織田信長,明智光秀・細川藤孝を安土城に呼び,丹後平定の功を賞し,光秀の三女を細川忠興に,四女を織田(津田)信澄に嫁がせるよう命じる。  天正7年2月18日、織田信長、上洛。半月ほど京に滞在し、鷹狩りなどを楽しむ(織田信長合戦全録より)  天正7年2月28日、明智光秀、丹波攻略のためその策源地である亀山城(京都府亀岡市)に向け、居城の坂本城を進発(織田信長合戦全録より)  天正7年(1579)3月、秋上綱平(同姓庵介久家の父)病死。この時すでに秋上庵介は鬼籍に入っていた模様。  天正7年3月5日、織田信長、嫡男信忠などを率いて摂津有岡城に出陣のため、京都を進発(織田信長合戦全録より)  天正7年3月、宇喜多直家、毛利氏を離反し、織田方に就き、3星城を攻撃(織田信長合戦全録より)  天正7年4月、織田信長が嫡男信忠を主将として播磨三木城攻めの援軍を派遣(織田信長合戦全録より)⇒織田信忠は三木城の周囲や敵城淡河城に砦を築くとともに、小寺政職の御着城を攻撃して摂津に帰陣(織田信長合戦全録より)  天正7年5月1日、織田信長、摂津有岡城攻囲戦より帰洛(織田信長合戦全録より)⇒摂津では鷹狩りを楽しんだり、箕面の滝(大阪府箕面市)を見物(織田信長合戦全録より)  天正7年5月5日、明智光秀、波多野氏の支城であった丹波氷上城(城主波多野宗長)を落とす。以後、八上城攻めに専念する。(織田信長合戦全録より)  天正7年5月28日、明智光秀、八上城の波多野秀治兄弟と和睦?(前後の流れを十分に確認する必要)  天正7年6月1日、明智光秀、丹波波多野氏の主城八上城を落とす。(織田信長合戦全録より)**餓死者が大勢出る状況になっても開城しようとしない城主をみて、城兵が城主を捕らえて明智光秀に引き渡したとされ、城主波多野秀治兄弟3人は6月6日洛中を引き回されたうえで、安土城で磔にされる。  天正7年6月2日、波多野秀治、秀尚らが八上城を出て明智

950(1578)_==天正6年==【旧版】

是非、最新版でお楽しみください(^^)/ >_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正6年(1578)1月1日、織田信長、安土において諸国の大名の祝賀を受ける。  天正6年1月2日、播磨利神城の別所定道(治定の孫)の代に天正5年の上月の役を向かえたが、病弱な定道は勝算のない戦いを無益に感じて人質を差し出して和を乞うたという。しかし、その弟の日向守林治は好戦的で、上月城の守将となった山中鹿之助に挑戦し、これに憤った山中鹿之助は同城を攻めて横坂、甕岩の1戦で別所軍を大いに打ち破った。⇒山中鹿之助は京都に上っており、事実でない可能性大?  天正6年1月6日、織田信長、正二位に叙せられる。  天正6年1月7or8日、明智光秀、坂本にて津田宗及と茶会。  天正6年1月末、尼子勝久/山中鹿之助、上月城を宇喜多勢から奪回。  天正6年1月、吉川元春が月山富田城に入城。但馬/丹波の国人衆との連携強化を図る。しかし、別所長治の織田家への謀反により東播磨の情勢が変化したため、目標を播磨に変更。特に孤立化した上月城を攻撃目標とした模様。  天正6年2月、播磨三木城主別所長治が織田信長・羽柴秀吉を裏切り、毛利方に寝返る。  天正6年2月上旬、宇喜多直家、5千の兵力を上月城(城兵は5百程度)に投入し、攻撃。尼子勢(尼子勝久、山中鹿介ら)は羽柴秀吉の命により上月城を捨て、退却。宇喜多直家、上月村出身の上月一郎景貞を在番とし、城兵2千を預ける。  天正6年2月23日、羽柴秀吉が播磨に帰陣。加古川の糟屋内膳武則の城を借りて1部の軍勢を入れ上方との連絡の拠点とし、秀吉自身は書写山に本陣を据える。//直後、三木城別所長治が反旗を翻し、毛利方につく。別所長治の離反は東播磨の国人衆に大きな影響を及ぼす。  天正6年3月6日、羽柴秀吉は三木城攻城戦の本陣を書写山円教寺に移陣。⇒「播州円教寺記」には、「老若上下方々に馳せ散り、坊舎仏閣、1時に破損す」とある。  天正6年3月、明智光秀/細川藤孝が丹波に再度進攻し、波多野氏の八上城を攻囲を開始。//織田信長自

950(1577)_==天正5年==【旧版】

20120507_修正しました。(三木城別所長治が毛利方に就いたのは天正6年でした) 20130527_上杉謙信関係の動きを追加 >_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正5年(1577)、宇喜多直家、主君浦上宗景が織田氏と結んだことを理由に天神山城を攻め落とす。  天正5年(1577)、宇喜多直家が天神山城を攻めて、浦上宗景を追放。(天神山城の落城については天正3年説と5年説があるが、天正3年説が有力か?)  天正5年(1577)2月9日、織田信長が雑賀攻略のために安土城を出陣し、上洛。//織田軍は総勢12万とも。  天正5年(1577)2月、織田信長自ら紀州雑賀一揆(石山本願寺の鉄砲隊の主力をなしていた)を討伐、3月半ば頃まで戦い、雑賀衆を降伏させる。  天正5年2月、羽柴秀吉、紀州雑賀衆征伐に、4400余の軍勢を率いて従軍。  天正5年、別所長治が、織田信長の紀州雑賀討伐に従軍。  天正5年(1577)2月13日、織田信長,紀州征伐のため,京都を進発。  天正5年(1577)2月15日、織田信長,紀州征伐のため,和泉に入る。//根来寺が味方し,貝塚(大阪府貝塚市)の一揆は潰走。  天正5年3月、上杉謙信が、関東諸将からの出陣要請を受け、出陣していた能登国から春日山城に戻る。//小田原城主北条氏政が関東の上杉方諸城を攻撃したため。  天正5年3月1日、織田信長,明智光秀・滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶らをやって,一揆の大将雑賀党鈴木孫一の居城を攻める。  天正5年、足利義昭・毛利輝元が、上杉謙信に宛てて、織田信長が紀州雑賀攻めに出陣し、京都奪還の好機であることを知らせ、上洛を促す。  天正5年3月2日、織田信長,鳥取郷(大阪府泉南郡)に陣を置き,堀秀政・不破河内らを根来口に向かわせる。  天正5年3月15日、織田信長が鈴木孫一ら雑賀衆に朱印状を発し、赦免を受け入れ。(3/21との説も)  天正5年3月21日、鈴木孫一・土橋平次らの七人の紀州一揆衆,織田信長に連署の誓書を出して,織田信長に下る。(3/15

950(1576)_==天正4年==【旧版】

20120513_木津川河口の戦い(H4.11.6)は誤記のため削除しました! >_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正4年(1576)、播磨国人の三木城主別所長治が織田信長に従う。  天正4年(1576)1月、織田信長が右大将に昇任。毛利氏から祝いの太刀、馬などが届く。  天正4年(1576)1月、丹波国波多野秀治、織田軍に反旗を翻す。明智光秀は敗戦により退却。山中鹿之助、殿軍を務める。  天正4年1月中旬、毛利氏が上洛作戦に関して吉田郡山城で評定し、作戦を決定。  天正4年1月中旬、織田信長、安土城の築城を開始。(同年4月とも)  天正4年1月、吉田兼見、丹波にて敗戦の明智光秀を京都北白川に見舞う。  天正4年1月21日、明智光秀は丹波攻略中のところ近江坂本城へ戻り、兵の休息を促す。  天正4年1月、吉田兼見、近江坂本を訪れ、明智光秀と面会。  天正4年1月23日、織田信長、美濃岐阜から安土に移る。  天正4年2月6日、毛利元康/杉原盛重ら、尼子氏の属城因幡宮吉城を攻略する。  天正4年2月8日、足利義昭が紀州由良から備後鞆の津に到着。側室や上野重政、畠山昭賢、真木島昭光、武田信景、春阿弥ら側近・同朋衆20余名。⇒毛利氏に対して幕府再興のための挙兵を促す。上杉謙信に対しても新たに働きかけを始める。  天正4年2月18日、明智光秀、丹波攻略のため、再度、出陣。  天正4年2月23日、織田信長、美濃岐阜城下の佐久間信盛の屋敷から近江安土へ移る。  天正4年3月、原田直政,松永久秀の子久通が土市城(奈良県橿原市)に土市遠長を攻めた際に調停する。  天正4年3月11日、織田信長、吉川元春の歳首の礼に応え、山中鹿之助らを庇護しない旨を回答。  天正4年4月、織田信長が安土城の築城を開始(同年1月とも)  天正4年4月、石山本願寺が織田氏に対して和睦を破り、再度挙兵。この時、織田信長は荒木村重・細川藤孝・明智光秀・原田直政の四人を中心とした大軍を催し、石山本願寺攻略に向かう。石山本願寺方の戦意旺盛のため、その後、原田直政が討死

950(1575)_==天正3年==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正3年(1575)?月、石山本願寺が織田と一旦講和。  天正3年1月、羽柴秀吉が近江長浜城に入城。//この際に、地名を今浜から長浜に改名。  天正3年1月、毛利輝元、小早川隆景が備中松山城(三村元親)を開始。落城は5カ月後。  天正3年?月、織田信長が聖護院道澄を安芸毛利氏に遣わし、尼子残党の蜂起や三村元親の謀反は織田方によるものではないことを弁明。  天正3年(1575)2月5日、山中鹿之助、因幡若桜鬼ヶ城を攻撃。草刈景継が防戦。尼子勢が優位にたつも毛利勢の来援のため、退却。→これはおかしいかも。天正2年8月に若桜鬼ヶ城は尼子方の城となり、その後、鳥取城を逃れた尼子勝久/山中鹿之助が入城している。また、草刈景継は美作高田城主ではないか。ただ、天正3年5月に尼子勝久/山中鹿之助が若桜鬼ヶ城に入城したとの説もあり、天正2年8月-天正3年2月の間に、1度、毛利勢に落とされたのかもしれない。←  天正3年2月13日、明智光秀・村井貞勝、山城清涼寺に禁制を与える。  天正3年3月3日、織田信長、岐阜から上洛し、相国寺の慈昭院に宿泊。  天正3年3月23日、織田信長、塙直政を大和守護に補任する。  天正3年4月4日、明智光秀、二千余を率いて、河内高屋城に出陣。  天正3年4月4日、明智光秀・柴田勝家・佐久間信盛・滝川一益の連署で、片岡弥太郎(河内交野城主)という者に宛てて、「貴国衆はこの節馳走肝要である」旨を書状で伝える。  天正3年4月6日、織田信長、三好康長の河内高屋城ならびに石山本願寺を攻めるため、1万余を率いて出陣。  天正3月4月8日、織田軍、摂津(河内?)高屋城と石山本願寺を攻撃。  天正3年4月9日、三好康長、織田勢に降伏。  天正3年4月12日、織田信長、住吉に着陣。  天正3年4月13日、織田信長、石山本願寺を目標として、天王寺に進出。  天正3年4月14日、織田信長、石山本願寺(大坂城)を攻める。(4/19まで摂津在陣後、4/21に京都に帰着)

950(1574)_==天正2年==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正 2 年 (1574)1 月、織田信長、正月の祝宴に浅井久政、長政父子および朝倉義景の薄濃にして肴に出す。  天正 2 年 (1574)1 月 3 日、山中鹿之助、尼子勝久を奉じて再び因幡国へ侵攻。同行した部将は立原源太兵衛久綱/神西三郎左衛門/加藤彦 5 郎/亀井茲矩/吉田三郎左衛門/森脇市正/横道源介/横道権ジョウ/牛尾大炊助/足立次郎左衛門/足立治兵衛/進左吉兵衛ら。山名豊国の援助を受ける。尼子勢は伯耆への侵入後、 13 箇所の城を落とし、旧交のある浪人達が馳せ加わり、勢力を増大。  天正 2 年 1 月、尼子勢は毛利方の大坪甚兵衛一之が安芸に赴く事を知り、山中鹿之助が途中の鳥取辺りの雁金山の麓で待ち伏せし、大坪らを襲うも、山中鹿之助待ち伏せの知らせを受けていた大坪が小勢ながらも奮戦し、山中鹿之助が敗北。 // 山名豊国は何度も毛利と尼子を天秤にかけて寝返りを繰り返し、背腹常なく、最終的には家臣に追放されることになる。  天正 2 年 1 月 5 日、山中鹿之助/立原久綱ら、私都城(城主大坪甚兵衛は安芸へ赴き不在?)を攻めるも、毛利方の在番牛尾元貞の抵抗により退却。>この時、山中鹿之助が林という在所に逃げたことから、大坪は笑いながら、「人に会いて林に入るは、鹿と云う名には応じたり」と嘲ったという。  天正 2 年 1 月、織田信長,明智光秀に大和多聞山城を守らせる。  天正 2 年 1 月、武田勝頼,東美濃に侵攻。  天正 2 年 1 月中旬、三条西実澄,明智光秀を大和多聞山城に訪ねる。  天正 2 年 1 月 19 日、織田方の越前守護前波吉継が富田長繁に攻め殺される。  天正 2 年 1 月、越前の諸将が一向一揆に加担し、越前の国境が騒然となる//羽柴秀吉は織田信長のもとに浅野弥兵衛を派遣して、越前国境の騒乱を注進しつつ、独断で若狭衆を率いて出陣//使者の浅野弥兵衛に山中鹿之助のことを伝言毛利氏が播磨浦上氏を調略する気配あり。武田氏や石山本願寺のこともあり毛利氏との直接対

950(1573)_==天正1年(元亀4年)==【旧版】

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  元亀 4 年 (1573)4 月、天正に改元。  天正 1 年 (1573) ? 月、吉川元長が、旧名の元資から元長に名乗りを改める。  天正 1 年 (1573) ? 月、この頃の伯耆の有力者は南条氏。南条氏は佐々木源氏の庶流で、 14 世紀頃に南条氏の祖伯耆守貞宗が伯耆河村郡羽衣石に羽衣石城を築城したことに始まる。南北朝/室町期には東伯耆にまで勢力を伸長。羽衣石城から数㌔離れた長和田に城下町を形成。  天正 1 年 (1573) ? 月、織田信長が羽柴秀吉/武井某に命じ、小早川隆景宛に書状。小早川隆景から因幡/但馬の情勢について報告を受け、近日中に京都に入り、但馬出兵の日限を毛利方に連絡するという内容。 ⇒ この時期、織田信長は伊勢一向一揆の鎮定に当たっていたため実質上但馬出兵は無理だった。  天正 1 年 (1573) ? 月、山中鹿之助、立原久綱ら、織田信長に接見。>はじめ柴田勝家を通じて織田信長に援助を願った(同年 12 月 12 日付け安国寺恵瓊の書状より)とも、明智光秀を頼ったとも>最終的には、明智光秀を頼ることになり、明智光秀の先陣を命じられた>織田信長は尼子氏への援助を約しながら、毛利氏にはこれを断ったと回答。  天正 1 年 (1573)? 月、宇喜多直家、沼城から石山城に移る。 // この頃の直家は天神山城浦上宗景の重臣。亀山城を弟春家に守らせる。  天正 1 年 ? 月、宇喜多、毛利が同盟。  天正 1 年 2 月、足利義昭、織田信長に反旗を翻す。  天正 1 年 2 月 6 日、山城国岩倉の山本・渡辺・磯谷ら、織田信長に背く。  天正 1 年 2 月 10 日、山城国岩倉の山本・渡辺・磯谷ら、織田信長と戦うため、近郷に在陣。  天正 1 年 2 月 11 日、吉田兼見、明智光秀に使者をやり、陣中を見舞う。  天正 1 年、足利義昭,松永久秀・三好義継と和睦。  天正 1 年、織田信長,朝山日乗・島田秀満・村井貞勝の三人を足利義昭の所にやり,人