峡の劔:第九章 策士(1)

第九章 策士

 清太と伝輔は四天王寺砦に戻ると、手負いからまだ十日余りしか経過していない弥蔵に、重治の指示で播磨に下向する旨を伝え、弥蔵の回復を確認する。
「鈍った身体を慣らすついでに、信貴山に使いいたしましょう。」
 弥蔵は返答しながら、既に脚拵えを始めている。
「無理は禁物ぞ。」
 清太の心遣いに、弥蔵が出立の準備を進めながら、心底嬉しそうな笑顔を浮かべる。
 弥蔵は、亥介達に引き続き信貴山を監視するよう伝えたあと、何事もなかったように天王寺砦に戻ってきた。
 清太は佐久間信盛の陣屋に赴いき、
「竹中様の添え状をもって陣をお借り致しましたが、戦功の機会を得ぬまま空しく退去せざるを得ぬ仕儀となりました。ご容赦ください。」
と、直接、信盛に詫びたあと、弥蔵、伝輔を伴って播磨へ出立する。

 山陽道には旅商人や僧侶などを媒介して久秀の天王寺砦退去や北陸の情勢が無数の尾鰭を伴いながら伝搬する。それらは西に行くにつれて、
―毛利氏、優勢。
という色彩へと変化し、人口を膾炙して巷間を巡る。その中には、
「越前では上杉謙信が柴田勝家を撃破して、既に上洛の途上にある。」
などというまことしやかな流言飛語も混入する。清太はそれらを耳にするたび、
―たとえ妄言や誇張であっても、繰り返し耳に流し込めば、播磨の国人衆達は去就に迷うことだろう。
と想像し、また、
―裏世間の小さな施術が時流を大きく変えることもある。
ということを改めて実感する。
 姫路に到着した清太達は、近郊の小さな鎮守の杜に紛れ込み、手頃な大きさの祠を見つけて当面の拠点に定めたあと、万一に備えて伝輔に留守(りゅうしゅ)させ、清太と弥蔵だけで姫路城に赴き、「竹中重治からの使者」として公式に来訪を告げ、重治の書状を門番に差し出す。
 姫路城は姫山と呼ばれる小高い独立丘峰全体を戦国風に要塞化した山城である。室町時代初期に築城されたが、それを孝高の祖父黒田重隆が戦国風の山城に仕立て直した。以降、黒田家が三代にわたって手を加えてきた姫路城は山陽道の中でも指折りの堅城となり、また、その城下は賑わいのある町の一つになっている。
 黒田氏は流浪の境遇にあって播磨に流れ着いた重隆が広峯神社と提携して黒田家伝来の目薬を製造・販売することで財を成した。その後、播磨国人衆小寺氏の要請で出仕したことにより興り、重隆の跡を継いだ職隆が主人小寺政職のさらなる信頼を得て、新参ながらも小寺氏の家老職に就くと、職隆は早々に隠居して、若い嫡子孝高に家督を譲り、現在に至る。すなわち、現当主孝高は姫路の黒田氏としては三代目に当たる。
 播磨には小寺政職を代表として孝高の明晰な頭脳と類稀な弁舌を大いに頼む勢力がある反面、主要な国人衆を説諭して織田方に引き込み、古参の自分達を差し置いて我が物顔に振る舞う孝高を快く思わぬ勢力も存在している。
 さらに言えば、黒田氏の播磨における実績は未だ三代に過ぎず、一部の国人衆やその重臣達には、
―黒田氏など、どこの馬の骨とも知れぬ流れ者。
という想いが未だ垢離のように残留している。そういう点、先々代の重隆、先代の職隆は、
―自分達は新参者。
という点を意識して小寺氏譜代の重臣達など守旧勢力との融和に努めてきたが、三代目孝高に至って、
―黒田家が実力で継承した小寺氏の家老職。
という気持ちが仄見えることもあり、譜代の重臣達からすれば、驕慢を感じる場面もあった。

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