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950(1561)_==永禄4年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄 4 年 (1561)2 月、長尾景虎が総勢 11 万 5 千騎で小田原城 ( 城主北条氏康 ) を包囲する。 // 先陣は岩槻城主太田資正、二陣は忍城主成田長泰、羽生城主広田式部大輔、深谷城主上杉憲盛、越後諸将は直江実綱、柿崎景家、斎藤朝信、本庄慶秀、中条藤資、甘粕長重、本庄繁長、鮎川清長、安田長秀、新発田長敦、桃井義孝、黒川清美、宇佐美定満、大川忠秀らが従う。  永禄 4 年 2 月、三河の松平元康が、尾張清州を訪れ、織田信長と対面、和解する。 // 今川義元の死後、松平元康は独立を目指す。義元の跡目を相続した氏真が、尾張訪問について元康に詰問するが、元康は弁明の使者を出してごまかす。  永禄 4 年 (1561)3 月 13 日未明、長尾景虎が、相模国小田原城攻めのため高麗山に本陣を構え、攻城を開始。 // その後、 1 ヶ月半に及ぶ城攻めを展開するも、小田原城は落城せず。そのうち、北条氏康と手を結んだ武田信玄が信濃国に出陣するとともに越中一向一揆にも不穏な動きがあり、長尾景虎は鎌倉 ( 神奈川県鎌倉市 ) に引き上げる。  永禄 4 年 3 月 18 日、石山本願寺において親鸞の三百回忌が始まる。以後 10 日間続く。  永禄 4 年 3 月 18 日、十河一存が病死 // 日が不詳? // 一存は、三好長慶の弟で、長慶配下の有力武将だった。  永禄 4 年 (1561) 閏 3 月 16 日、長尾景虎が、鶴岡八幡宮において、上杉憲政の要請で山内上杉家を相続し、関東管領に就任。この際、憲政の一字を賜り政虎と改め、上杉氏を称する。 // この際、鶴岡八幡宮へ黄金 100 枚を奉納したと伝わる。  永禄 4 年 4 月 1 日、上杉政虎 ( のちの上杉謙信 ) が、鎌倉で宝生・金剛の能楽を催す。  永禄 4 年 4 月 11 日、本願寺顕如が、権僧正に任じられた礼として二千疋を朝廷に献上。  永禄 4 年 5 月 11 日、美濃の斎藤義竜が、稲葉山城で逝去。享年 35 歳。嫡子斎藤竜興

950(1560)_==永禄3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 2018.4.1更新  永禄 3 年 (1560) 、吉川元長が元服。加冦は叔父の毛利隆元。  永禄 3 年 (1560)1 月 11 日、石山本願寺を訪れていた実従が、寺内町衆の大文字屋四郎左衛門に招かれ、茶の湯座敷で茶を立てる。  永禄 3 年 (1560)1 月 16 日、夜、石山本願寺の西町において火事が発生。  永禄 3 年 (1560)1 月 27 日、正親町天皇の即位大典を開催。 // 長尾景虎が幣物を献上。  永禄 3 年 (1560) 2 月 1 日、松永久秀、三好義興が義輝の御供衆となる。  永禄 3 年 (1560) 2 月 3 日、松永久秀が弾正少弼に任ぜられる。  永禄 3 年 3 月、本願寺の一家衆である興正寺の証秀が、河内錦織郡の富田芝と呼ばれていた荒れ地を守護代の安見直政から銭百貫文で会、興正寺別院とその寺内町を建設しようとした。  永禄 3 年 (1560)3 月 15 日、長尾景虎が、上洛からの帰国を祝って、関東八ヶ国の衆から太刀を贈られる。  永禄 3 年 3 月 26 日、長尾景虎が、松倉城 ( 富山県魚津市鹿熊 ) 城主椎名康胤らを助け、富山城 ( 富山市 ) 城主神保長職 ( ナガモト ) を討伐して上洛の道を確保するため越中に侵攻。  永禄 3 年 3 月 30 日、長尾景虎が、越中国富山城を攻略。 // 神保長職は城を脱出し、増山城 ( 砺波市 ) に逃げ込むが、景虎が追撃し、神保長職は行方知れずとなる。  永禄 3 年 5 月 8 日、実従 ( 浄土真宗、蓮如の実子 ) が鶯合わせや立花を楽しむ。  永禄 3 年 5 月 18 日、万里小路秀房が、石山本願寺に下り、慶寿院 ( 顕如の祖母、 68 歳 ) が朝廷から従二位に叙せられることを伝える。  永禄 3 年 5 月 18 日、今川義元が、二万五千の大軍を率いて、尾張沓掛 ( 愛知県豊明市沓掛町 ) に本陣を設ける。先陣は松平元康の三河勢で、この時元康 19 歳。三河

950(1559)_==永禄2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 2018.4.1更新  永禄 2 年 (1559) 、浦上宗景が、宇喜多直家に直家の妻の父中山備中守信正の謀殺を命じる。-直家は居城を新庄山城主(岡山市竹原)から中山信正が居城としていた亀山城(沼城?)に移る。この後、直家は亀山城(沼城?)を大改造。( Wiki )  永禄 2 年 2 月 2 日、織田信長が上洛。室町 13 代将軍足利義輝に謁見。信長 26 歳。  永禄 2 年 (1559)2 月 3 日、本願寺顕如の妹東向が、播磨の本徳寺と三河の本宗寺住持であった実円の孫教什と婚約。東向 14 歳、教什 20 歳。  永禄 2 年 3 月、織田信長が、織田信賢の岩倉城 ( 愛知県岩倉市 ) を攻略し、尾張一国をほぼ手中にする。 // 今川義元が尾張南部を伺っている情勢。  永禄 2 年 4 月 2 日、石山本願寺の東の直下の鴫野 ( シギノ、大阪市城東区鴫野 ) で勧進能が催される。 // 途中喧嘩が起こり町衆も河内衆もそれを制止した番衆にも死者が発生し、舞台や楽屋などが放火される。  永禄 2 年 (1559)4 月 3 日、長尾景虎 ( 後の上杉謙信 ) が 5000 の兵を率いて上洛の途につく。 // 手土産として将軍足利義輝へ黄金 30 枚 (300 両 ) 、将軍の母慶寿院へ白銀 1000 両、その他内裏修理資金や、延暦寺・金剛峯寺・石清水八幡宮など洛中洛外の神社仏閣へ金銀・青銅を寄進。 // 供奉した武将は長尾藤景、本庄実乃 ( サネヨリ ) 、直江実綱、柿崎景家、吉江景資、北条高常ら。  永禄 2 年 4 月 18 日、本願寺顕如の妹東向が、播磨の阿賀へ輿入れ。  永禄 2 年 (1559)4 月 20 日、上洛の途にある長尾景虎が、近江坂本の目代舟橋弥兵衛尉の家に到着。  永禄 2 年 (1559)4 月 21 日、将軍足利義輝が、上洛の途にある長尾景虎に、大館藤安を使者として遣わし、景虎の入洛を促す。  永禄 2 年 4 月 27 日、長尾景虎が入洛。  永禄

950(1558)_==永禄1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤っている可能性があります。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 2018.4.1更新  弘治 4 年 (1558) 、この年 2 月に永禄に改元。  永禄 1 年 (1558) 、浦上政宗が、復権を目指して主人赤松晴政を廃し、晴政の子赤松義祐へと強制的に家督を継がせる。-追放された赤松晴政が娘婿である龍野城主の赤松政秀を頼った事により、龍野赤松氏が独立勢力化し新たな火種を産む。( Wiki )  永禄 1 年 (1558)2 月、吉川元春が石見に進攻し、石見温湯城(城主小笠原長雄)を攻めるが、城方の抵抗が強い。>弘治 2 年に続いて再度進攻の形。  弘治 4 年 (1558)2 月 28 日、弘治から永禄に改元。  永禄 1 年、尼子晴久が本城常光を石見に派遣し、大森銀山の糧道を絶つとともに、尼子晴久自身も大田に出陣し山吹城を攻める。  永禄 1 年 (1558)3 月 16 日、実従 ( 浄土真宗、蓮如の実子 ) が少僧都の位を朝廷から授かる。  永禄 1 年 5 月 3 日、近江の朽木に隠れていた将軍足利義輝が、近江に隠れていた前管領細川晴元と結び、六角義賢の援助を受けて、京回復を目指し、近江坂本まで進出。 // この頃、摂津芥川にいた三好長慶が畿内はじめ 8 カ国を支配。 // 本願寺は先の顕如の婚儀もあり、細川晴元に近い。  永禄 1 年 (1558)6 月、尼子晴久が石見へ出兵。  永禄 1 年 6 月 9 日、如意ヶ岳に布陣していた将軍足利義輝方が、北白川の勝軍地蔵山 ( 京都市左京区北白川地蔵谷町 ) を占領。 // 松永久秀の軍勢と睨み合う。  永禄 1 年、河内守護代の安見直政が、守護の畠山高政を追放し、高屋城に拠る。  永禄 1 年 7 月 17 日、本願寺顕如の母である顕能尼が逝去。享年 37 歳。  永禄 1 年 7 月中旬、毛利勢が、尼子勢が攻められていた山吹城に兵糧を入れるようとしたところ、大田市川合の南方 1 里の忍原 ( オシハラ ) で、尼子勢と激突し、毛利勢が大敗>「忍原崩れ」と呼ばれる。  永禄

950(1569)_==永禄12年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄12年(1569)、尼子氏と但馬の山名氏が同盟を結ぶ。  永禄12年(1569)1月4日、三好三人衆並びに斎藤右兵衛太輔竜興、長井隼人ら、南方の諸浪人を催し、薬師寺九郎左衛門を先鋒として、将軍足利義昭の御座所六条に取り詰め、門前を焼き払い、寺中に乗り入れようとする。(三好三人衆とは三好長逸らで、堺の後援を受ける。このとき、六条に立て籠もる武将は、細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七。斎藤竜興は後に越前に下って、朝倉義景を頼ったが刀根山の合戦で戦死。しかし、竜興の弟(斎藤新五郎≒織田信孝の家老斎藤玄蕃允利堯か?)は道三の孫であることから、信長はこれを助けて、斎藤家の跡を継がせるため、生活をできるだけの領地を与えた。)  永禄12年(1569)1月4日、薬師寺九郎左衛門(三好方)が山県源内、宇野弥七両人を討ち取る。  永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆が京都に乱入し、足利義昭の住む六条本圀寺を襲う。(この際、細川典厩藤賢・津田左近・赤座七郎右衛門・赤座助六・津田左馬丞・渡辺勝左衛門・明智一兵衛・森弥五八・内藤備中守および若狭衆の山県源内・宇野孫七らが切ってで、後巻きとして伊丹・荒木・茨木・細川兵部大輔(藤孝)・三好左京大夫らがかけ向かい、桂川辺りで1戦に及んで大利を得た(原本信長記)(1/6か)。)  永禄12年1月、三好左京大夫、細川兵部太輔、池田筑後、六条将軍御座所に救援に向かう。  永禄12年1月、京都桂川あたりにて、織田軍と三好軍がぶつかる。織田勢は、細川兵部太輔、三好左京大夫、池田筑後、伊丹、荒木、茨木ら。三好勢のうち、高安権安、吉成勘介、同弟、岩成弥介、林源太郎、市田鹿目介らを討ち取る。  永禄12年1月6日、織田信長、三好三人衆が京都に乱入した旨の飛脚の知らせをうける。(この日、大雪)  永禄12年1月6日、織田信長、大雪の中、美濃岐阜城を出発。  永禄12年1月8日、織田信長が

950(1568)_==永禄11年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄11年(1568)、足利義昭,織田信長に帰洛のことを再度依頼。  永禄11年(1568)2月、織田信長、北伊勢に出陣し、長野氏/神戸氏を下す。  永禄11年6月、吉川元春/小早川隆景ら豊後大友宗麟との対決のため北九州へ出陣。出雲国人衆米原/三沢/三刀屋らも動員。出雲大庭大宮(神魂(カモス)神社)の神官の一族秋上三郎左衛門尉綱平、毛利方の主力が北九州に出陣したことを京都の山中鹿之助/立原久綱らに通報。  永禄11年6月23日、足利義昭,細川藤孝・上野清信を使者として,明智光秀とともに織田信長に面会し,義昭を帰洛させるよう依頼した。(『細川家記』の記述で疑わしい。)  永禄11年7月12日、足利義昭,織田信長が帰洛のことを請け,まず美濃に移るため,近日越前を発つ旨,上杉謙信に書状で伝える。  永禄11年7月16日、足利義昭,越前一乗谷城を出発,近江に入り,浅井長政の館に泊まる。  永禄11年7月25日、越前へ和田伊賀守、不破河内守、村井民部、嶋田所之助を使わす。(これはおそらくあやまりで,7/25は織田信長が足利義昭に拝謁した日ではないか。)  永禄11年7月25日、足利義昭、美濃西庄(にしのしょう)立正寺に至る。(織田信長、足利義昭に鳥目千貫、太刀、鎧、武具、馬などを献上。)  永禄11年7月25日、足利義昭が越前朝倉氏のもとを離れ、美濃岐阜に到着。  永禄11年7月27日、織田信長,足利義昭に拝謁。(『細川家記』の記述。うたがわしい。)  永禄11年8月7日、織田信長、近江佐和山まで出陣。  永禄11年8月7日、織田信長、足利義昭の使者に添えて、信長の使者を、六角佐々木左京大夫承禎に義昭上洛のために人質の提出と馳走を命じるも、これより7ヶ日後、六角承禎はこれを断る。  永禄11年(1568)8月、山中鹿之助/立原久綱/三刀屋蔵人ら京都に会して尼子氏の再興を議し、大友宗麟と通じ東福寺の僧(新宮党誠久の遺児)を還俗させ、尼子孫四郎勝久として主君に推戴。(大3島神社に山中鹿之助奉納の大太刀が伝わる)

950(1567)_==永禄10年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< 永禄10年(1567)2月、毛利勢が出雲尼子攻略を終え、安芸吉田郡山城に凱旋 永禄10年(1567)春頃、織田信長が滝川一益を北伊勢に派遣。 永禄10年、毛利氏が播磨進出を企て、尼子方の播磨上月城を攻め落とす。 永禄10年3月、足利義昭,毛利元就に帰洛のための参陣を依頼する。 永禄10年8月2日、織田信長,岐阜城を落とし,斎藤竜興を追い,美濃を平定する。斎藤竜興はその伯父長井隼人らと近江に逃れ、のちに三好氏を頼る。他書は稲葉山城落城を永禄7年としているがこれは誤り? 永禄10年8月、織田信長が北伊勢に出兵。 永禄10年9月、織田信長、美濃稲葉山城を攻略。 永禄10年10月10日、松永久秀が三好三人衆との戦いの中で東大寺大仏殿を焼き払う。//このちょうど10年後に松永久秀は織田信長に謀叛し、自害している。?

950(1566)_==永禄9年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄9年、足利義昭,尾張の織田信長に帰洛のことを依頼。さらに、足利義昭,細川藤孝を使者として,織田信長・斎藤竜興の和睦を図る。  永禄9年、能登守護畠山氏の当主畠山義綱が父義続とともに家老の遊佐氏や長氏、温井氏らに追放され、幼少の義慶が擁立される。***以後、天正2年に義慶が逝去し、畠山氏の跡目は途絶える。  永禄9年、羽柴秀吉が墨俣1夜城を築城//蜂須賀小六、前野長康らが助力。  永禄9年(1566)、山中鹿之助、亀井家の養子となる(この説怪しい)。その後、天正2年(1574)に山中家に戻るとの説。  永禄9年(1566)前後、富田城の尼子勢のなかから多数の脱落者が発生し、毛利方に下る。重臣の牛尾幸清(尼子家家老職)/亀井秀綱/河本隆任/河副久盛/佐世清宗(尼子家家老職)/湯惟宗など。この時、山中鹿之助21歳。  永禄9年1月1日、尼子家筆頭家老の宇山久兼が、嫡男弥四郎とともに、毛利家への内通の罪で尼子義久の命により誅殺される。  永禄9年1月、尼子家重臣宇山久信が佞臣大塚与3右衛門の讒言により誅殺される。毛利元就の謀略との説も。この後富田城内から脱し、毛利方に下るものが多数。  永禄9年2月(?)、毛利元就が洗合の本陣で病に伏す。  永禄9年3月、毛利元就の病が回復<将軍足利義輝が曲直瀬道3を出雲に下向させる。  永禄9年3月1日、足利義昭,上杉謙信に上京を促す書状を出すとともに,織田信長と斎藤竜興の和睦を催促。  永禄9年4月、織田信長が吉川元春に宛て、出雲攻略が進んでいることを賀する書状を出す。  永禄9年4月21日、毛利勢と尼子勢が出雲富田城麓の中須で合戦。  永禄9年5月24日、尼子家臣鉢屋賀茂弥三郎が富田城下の七曲口で毛利勢を相手に奮戦。  永禄9年5月214日、立原久綱、富田城落城の約半年前、尼子義久より富田城七曲口の戦いでの久綱以下鉢屋加茂弥三郎の忠功を賞する感状を得る。  永禄9年5月末、毛利元就、風邪がもとで病床に。小早川隆景/吉川元春協議し、聖護院門跡道澄に仲介を依頼し

950(1565)_==永禄8年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄8年(1565)、毛利輝元と吉川元資(後の元長)が出雲富田城攻めに参陣。輝元と元資はこの時が初陣。  永禄8年(1565)、清水宗治、石川久孝の跡を継ぎ、高松城城主となる  永禄8年4月、毛利元就、本陣を富田城付近の星上山(京羅木山の西)に移し、八幡の浄安寺山、石原の滝山に布陣。  永禄8年(1565)4月17or18日、毛利元就、富田城を総攻撃を開始。3万余の毛利勢は3隊に別れ、小早川隆景は菅谷口(北の大手口)、毛利元就/輝元は御子守口(西の脇口)、吉川元春/元長父子は塩谷口(南搦め手)から進攻。尼子勢は菅谷口に尼子秀久、御子守口に大将尼子義久、塩谷口に尼子倫久を配して反撃。山中鹿之助、塩谷口の戦いで武功を上げる。  永禄8年4月18&19日、毛利勢と尼子勢が出雲市庭で小競り合い。鉢屋掃部が鉄砲で奮戦。鉢屋弥四郎も戦功を挙げる。⇒鉢屋掃部はその後尼子分国中の弦弓鉢屋親分(弓弦製造職の本宗)を申し付けられる。  永禄8年4月28日、富田城総攻撃を開始した毛利勢が洗合の本陣に1旦退却。  永禄8年5月19日、室町13代将軍足利義輝が、二条御所において三好修理大夫、松永秀久などの指令を受けた兵に襲われ、打ち取られる。享年31歳。//義輝の弟鹿苑院も平田和泉に殺害される。  永禄8年5月、南都一乗院門跡(足利義昭)、三好修理大夫・松永弾正(久秀)の監視の目をかいくぐり、逃亡。  永禄8年、南都一乗院門跡(足利義昭)、和田伊賀守を頼って、伊賀・甲賀路を経て、近江矢嶋に至る。また、佐々木六角承禎を頼むも、承禎は三好三人衆に脅されて,義昭を殺害しようとする。  永禄8年、南都一乗院門跡(足利義昭)、近江甲賀にて,還俗し,足利義秋と名乗る。  永禄8年、足利義昭,越後の上杉謙信に帰洛のことを依頼。  永禄8年、足利義昭、朝倉義景を頼って、越前に赴く。  永禄8年8月6日、毛利氏の武将杉原盛重が尼子方の伯耆江美城を攻め落とす。>伯耆の尼子方もこの時点で殆ど消滅。  永禄8年9月3日、毛利方の備中成羽城主3村家

950(1564)_==永禄7年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄7年(1564)、毛利隆元が逝去。  永禄7年(1564)、山中鹿之助、伯耆に入り杉原盛重と戦う。  永禄7年(1564)4月15日、立原久綱、尼子義久より富田城籠城の功を賞され、同時に兄幸隆より家督を相続した折の新恩の宛行いを約束されている。  永禄7年7月、三好長慶が病死。  永禄7年夏頃、安国寺恵瓊、10年ぶりに安芸へ戻り、毛利元就と初めて接見。

950(1563)_==永禄6年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄6年(1563)1月、尼子方の宇山、牛尾、立原らが富田城を出撃し、出雲三刀屋の南地王峠で三刀屋川を隔てて毛利勢と激戦を展開。>出雲白鹿城救援と一致?>当日戦況が有利に進み、次の日を期していたが、毛利勢の援軍が洗合から出陣したとの虚報を信じ、富田城に帰還。>尼子方にとって、これが毛利方の補給線を断つ好機であった。  永禄6年(1563)1月、尼子勢が毛利軍に包囲された出雲白鹿城を救援するために援軍を派遣。この時山中鹿之助19歳、援軍の先鋒を願い出るも、大身の反対で叶わず。秋上庵介が従軍。退却時の殿軍で功があったと言われる。立原久綱は、尼子勢の三刀屋城攻撃において尼子義久の近習頭として先発隊を率いたのが史書に現れる最初。  永禄6年、大友宗麟が毛利方の豊前苅田松山城を攻撃⇒毛利元就は掛合に在陣中の嫡男毛利隆元に北九州出陣を命じる。  永禄6年3月上旬、毛利氏と大友氏の和議が成立。⇒毛利隆元は北九州の陣から出雲へ。  永禄6年4月、尼子勢が出雲松江の津田表を夜襲。  永禄6年(1563)8月13日、毛利元就、1万5千余を率いて白鹿城(城将松田誠保、城兵2千)総攻撃を開始。  永禄6年8月4日、毛利隆元、安芸高田郡佐々部(広島県高宮町)で急死。享年41歳。>時に毛利元就は67歳。  永禄6年8月6日、尼子方、富田城を出て松江の馬潟原で毛利勢と合戦。  永禄6年8月13日、毛利元就、出雲白鹿城の総攻撃を命じる。毛利勢1万5千、城方は城将松田兵部丞誠保の手兵1千と牛尾太郎左衛門尉久清率いる富田の援兵8百余。  永禄6年8月19日、尼子方、富田城を出て白鹿城の麓の船本で毛利勢と合戦。  永禄6年8月28日、毛利軍と尼子軍、出雲国宍道で衝突。  永禄6年9月1日、尼子方の熊野兵庫介が熊野城で毛利勢と合戦。  永禄6年9月11日、毛利元就、大森銀山の鉱夫数百名を出雲に呼び寄せ、白鹿城の水の手を断つために穴を掘ることを命じる⇒白鹿城内でこれを察知し、地下道を作って毛利勢を迎え撃つ。  永禄6年9月23日、尼子方

950(1562)_==永禄5年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄5年(1562)、小早川隆景と毛利隆元率いる毛利勢の北九州方面軍が撤兵し、石見の毛利元就本隊と合流。  永禄5年2月5日、毛利勢が尼子方の刺賀岩山城(城主多胡辰敬)を落とす。多胡辰敬は城を枕に討死。  永禄5年2月、毛利勢(この時には北九州方面軍と合流済み)が石見川上松山城を落とし、福屋隆兼の次男隆任を斬る。>これを見た福屋隆兼は乙明城を放棄し、尼子義久を頼るも毛利氏との和睦を望む尼子義久には受け入れられず、大和信貴山城の松永久秀のもとに走る。  永禄5年6月、尼子方の有力武将本城常光が毛利方に寝返り⇒これを受けて鰐走の牛尾氏、温泉津の湯氏が敗走し、石見が毛利方のものとなる。また、本城常光の寝返りにより、大森銀山が毛利方の手に落ちる。  永禄5年(1562)、毛利勢、石見を平定し、大挙して出雲に進出。  永禄5年6月、出雲西端に勢力のあった尼子方の赤穴久清が毛利方に寝返る。これと前後して、仁多の玉峰城主三沢為清、飯石の三刀屋城主三刀屋久扶、松江の満願寺山城主湯原春綱、●川の高瀬山城主米原綱寛らの出雲国人衆が相次いで毛利方に寝返り。また、伯耆の南条宗勝が東伯の羽衣石に、行松入道が尾高泉山に入城して尼子に敵対する。  永禄5年7月3日、毛利元就が出雲攻略のため1万5千を率いて安芸吉田郡山城を出陣。⇒石見路を阿須那、都賀を経て出雲入城して入国。  永禄5年7月21日、毛利元就、石見都賀に着陣。出雲赤穴城に向かう。  永禄5年7月28日、毛利元就、出雲赤穴城に着陣。その後、赤穴城の北東頓原にしばらく滞在し、同年12月1日進発。  永禄5年11月5日、毛利元就が本城常光とその1党を暗殺し、大森銀山を手中に収める。⇒これを見た旧尼子系列の諸将が自らの立場を危ぶみ、尼子方に再び寝返る。毛利方に留まったのは三沢為清、三刀屋久扶、米原綱寛、赤穴久清ら。⇒毛利元就はこの情勢を見て赤穴まで退陣。  永禄5年12月1日、毛利元就が再び赤穴を進発。⇒天倫寺山の洗合に本陣を移す。⇒長期戦を見越して、

950(1561)_==永禄4年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄4年(1561) 、吉川広家が生まれる。  永禄4年5月14日、織田信長、森部で美濃斎藤勢と戦う。  永禄4年5月23日、織田信長、軽海で斎藤勢と戦う。  永禄4年11月頃、小早川隆景らが率いる毛利勢が豊後大友宗麟と北九州で激戦を交える。  永禄4年11月、毛利方の乙明城主福屋隆兼が、所領の扱いを巡る不満から、尼子方に寝返り。小早川隆景ら毛利勢が北九州に出陣していた虚を突く。  永禄4年(1561)、尼子義久、旧領復活を目指し、播磨国内に進行。山中鹿之助は義久の近従として初陣し、上月城を攻撃。これが山中鹿之助と上月城の初めての出会い。  永禄4年、尼子方に寝返った福屋隆兼らが毛利方の邇摩郡温泉津城主吉川経安を攻める。>将軍足利義輝の意向で毛利氏との和睦を望んでいた尼子義久の意志に反したものだった。>これに対し毛利方は川本に兵を進めるとともに、吉川元春が大田に兵を進め、吉川経安を援助。  永禄4年12月、毛利勢が尼子方の福屋隆兼の支配下にあった中村、矢上を落とす。

950(1560)_==永禄3年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄3年(1560)、吉川元長が元服。加冦は叔父の毛利隆元。  永禄3年2月1日、松永久秀、三好義興が義輝の御供衆となる。  永禄3年2月3日、松永久秀が弾正少弼に任ぜられる。  永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を討ち取る。//蜂須賀小六、前野長康が今川軍に切込み、武功を上げる。  永禄3年12月24日、尼子晴久逝去。享年47歳?嫡男義久が後継。>尼子晴久の逝去を聞いた毛利元就の言葉からは両者の直接対決はなかった模様。  永禄3年、山中鹿之助、甚次郎改め幸盛と称す。  永禄3年、山中鹿之助、尼子義久に従軍し、伯耆国尾高城攻めに参加し、菊地音八を討ち取る。

950(1559)_==永禄2年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄2年(1559)、宇喜多直家、主君浦上宗景の命令で妻の父中山備中守信正を謀殺し、その居城亀山城に移る。このとき直家は新庄山城主(岡山市竹原)。この後、直家は亀山城を大改造。  永禄2年(1559)、本願寺が寺院として最高の格式である門跡に列せられ、下間氏がその坊官となる。  永禄2年2月2日、織田信長が上洛。室町13代将軍足利義輝に謁見。  永禄2年(1559)4月3日、長尾景虎(後の上杉謙信)が5000の兵を率いて上洛の途につく。//手土産として将軍足利義輝へ黄金30枚(300両)、将軍の母慶寿院へ白銀1000両、その他内裏修理資金や、延暦寺・金剛峯寺・石清水八幡宮など洛中洛外の神社仏閣へ金銀・青銅を寄進。//供奉した武将は長尾藤景、本庄実乃(サネヨリ)、直江実綱、柿崎景家、吉江景資、北条高常ら。  永禄2年(1559)4月20日、上洛の途にある長尾景虎が、近江坂本の目代舟橋弥兵衛尉の家に到着。  永禄2年(1559)4月21日、将軍足利義輝が、上洛の途にある長尾景虎に、大館藤安を使者として遣わし、景虎の入洛を促す。  永禄2年4月27日、長尾景虎が入洛。  永禄2年(1559)、長尾景虎が、将軍足利義輝に拝謁して、太刀一腰、馬一疋代黄金三十枚(黄金三百両)を献上し、将軍に忠節を誓う。将軍義輝は返礼として、文の裏書、塗輿、菊桐の紋章、朱柄の傘、屋形号の使用を許し、千年の白傘袋と毛氈の鞍覆と合わせて、上杉の七免許と呼ばれることとなる。//文の裏書は、三管領の細川・斯波・畠山氏とその一族のみが許されていたもの。  永禄2年(1559)5月1日、長尾景虎が、正親町天皇に拝謁し、天盃と御剣を賜る。//この時の御剣は刀身八寸五分、五虎退(ゴコタイ)と呼ばれる名刀。//景虎は内裏修理の資金を献上し、南門を再興。  永禄2年5月15日、長尾景虎が、近衛前嗣に隼を贈って和歌懐紙を所望し、「三智抄」という歌書を求める。//その後、近衛前嗣は景虎に懐紙を贈って懇意を感謝し、「三智抄」については知らない旨を伝える。/

950(1558)_==永禄1年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄 1 年 (1558)2 月、吉川元春が石見に進攻し、石見温湯城(城主小笠原長雄)を攻めるが、城方の抵抗が強い。>弘治 2 年に続いて再度進攻の形。  永禄 1 年、尼子晴久が本城常光を石見に派遣し、大森銀山の糧道を絶つとともに、尼子晴久自身も大田に出陣し山吹城を攻める。  永禄 1 年 (1558)6 月、尼子晴久が石見へ出兵。  永禄 1 年 7 月中旬、毛利勢が、尼子勢が攻められていた山吹城に兵糧を入れるようとしたところ、大田市川合の南方 1 里の忍原 ( オシハラ ) で、尼子勢と激突し、毛利勢が大敗>「忍原崩れ」と呼ばれる。  永禄 1 年 9 月 3 日、尼子勢が石見山吹城を落とし、本城常光を城将に任命し、富田に凱旋。  永禄 1 年 11 月、室町第 13 代将軍足利義輝と三好長慶が、六角義賢の仲介により、和睦。義輝が 5 年ぶりの入洛。  永禄 1 年 12 月、三好長慶が、将軍義輝とその腹心細川氏綱と和睦し、幕府相伴衆となる。実権は長慶が握り、義輝も氏綱は傀儡。