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982_浦上氏周辺年表(最新版:和暦年表未反映)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_< 享禄4年(1531年)、浦上虎満丸(後の浦上政宗)が、父浦上村宗の摂津天王寺で戦死(大物崩れ)したため、浦上氏の家督を相続。-天文7年(1538年)頃まで幼少の虎満丸を一族の浦上国秀が後見していた。(Wiki) 天文1年(1532)、尼子氏が美作の浦上氏の勢力を排除して美作を制圧。(司空) 天文6年(1537年)、浦上虎満丸(後の政宗)が、尼子詮久(後の尼子晴久)の山陽道侵攻が始まったことを受け、父浦上村宗の仇とも言える赤松政祐(後の、晴政)と和睦する。しかし、尼子勢に敗れて備前から撤退。さらに、天文8年(1539年)末にはさらに東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、赤松政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。(Wiki) 天文8年(1539年)末、赤松政祐と浦上虎満丸(後の政宗)が、東進してきた尼子勢に播磨からも追われ、浦上政宗は赤松政祐を奉じて淡路を経由して和泉国の堺へと脱出する。(Wiki) 天文9年(1540年)初め頃、赤松政祐が将軍足利義晴から偏諱を賜って赤松晴政に改名。 天文9年(1540年)初め頃、浦上虎満丸が、元服して赤松晴政から偏諱を賜り「与四郎政宗」を名乗る。(Wiki) 天文11年(1542年)、浦上政宗が、室町幕府の助力を得て、赤松晴政と共に播磨に復帰。天文9年に二人は尼子勢により播磨から追い出されていた。(Wiki)  天文13年10月、尼子国久率いる尼子勢が再び備後に進軍し、出雲陣の帰途討死した小早川正平の子又鶴丸(のちの繁平)の守る豊田郡沼田の高山城を攻撃⇒落城しなかったので、高野山・久代などの人質をとり、そのまま美作に進攻し、浦上宗景の勢力下の真庭郡高田、篠フキ、苫田郡医王山の3城を攻略し、さらに因幡進出を試みるが、真木弾正忠時の進言により出雲に帰陣。  天文13年12月8日、尼子晴久が田口志右衛門に同年1月頃尼子国久が攻略した美作のうち北高田庄を宛行う。(司空) 天文13年(1544年)頃、この頃までに赤松晴政と浦上政宗が、播磨•備前の両国を回復する事に成功した。政宗は赤松家臣団を総括的に指揮する立

950(1582)_==天正10年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正10年(1582)?月、法華寺の事件//明智光秀が信長の前で「われらも年ごろ骨折った甲斐があって、諏訪郡のうちはみな上様の兵だ」といったことを信長が怒り、詰問。(色々と疑わしい点あり)  天正10年(1582)1月1日、羽柴秀吉、播州勢を連れ安土に滞留。//信長に御祝言上のため。織田信長に豪勢な土産を準備。  天正10年(1582)1月4日、秀吉、播州勢を連れ、安土を発つ。//本拠姫路に戻るため。途中摂津吹田で茶人長谷川宗仁の接待を受け、船中で茶の湯を愉しむ。その日は尼崎で1泊。  天正10年1月(1582)5日、秀吉、姫路に到着。  天正10年1月7日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会を催す。  天正10年1月15日朝、明智光秀、博多宗室・津田宗及と茶会を催す。  天正10年1月18日朝、明智光秀、津田宗及・銭屋宗納・山上宗二と茶会を催す。  天正10年1月、宇喜多氏が宇喜多直家の喪を発表。  天正10年1月下旬、小早川隆景が備中国境七城の城主を三原城に招く。//織田氏と毛利氏の勢力の最前線。  天正10年1~2月頃、秀吉、堺の商人に中国地方の米の買い占めを命じる。  天正10年2月、明智光秀が武田勝頼に信長に謀反する旨の書状を送る。(甲陽軍鑑より。これは疑わしい。)  天正10年(1582)2月12日、織田信忠が武田勝頼討伐のため岐阜を出陣。  天正10年2月12日、蜂須賀正勝、黒田孝高、3千3百を率いて、備前宇喜多と打ち合わせ児島郡常山城(城主戸川平右衛門)を攻略し、備中の国境に布陣。  天正10年2月、織田信長、長宗我部元親に対して、土佐・阿波二国を安堵し、その他を信長が召し上げる旨を通知//長宗我部元親はこれに怒る。元親は独力により既に四国を大略制覇。  天正10年3月1日、清水宗治、嫡男源三郎に宛て手紙を送る。//同年4/2に秀吉の備中乱入があることを予測した文章がある。  天正10年3月2日、織田信忠率いる織田勢が遠江高遠城を落とす。  天正10年3月5日、織田信長が武田勝頼討伐のため安土を出陣。同年2月に信忠が先発。

950(1581)_==天正9年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正9年(1581)、毛利軍が備中児島に侵攻。蜂浜(玉野市八浜)合戦、宇喜多勢を破る  天正9年(1581)、宇喜多直家が岡山城内で逝去。享年53歳。死は一年間秘せられる。  天正9年(1581)1月10日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会。明智弥平次(秀満)の記載有り(宗及茶湯日記より)//場所は不明。  天正9年1月11日朝、明智光秀、津田宗及・山上宗二と茶会。(1/10にも同様な記載)  天正9年1月15日、播磨三木城主別所長治、羽柴秀吉に降伏を申し入れる。降伏の条件は城主長治と弟友之、叔父吉親の切腹とそれを引き換えにした城兵の助命。//播州三木城落城により周辺の魚住城、高砂城、御着城も前後して陥落。  天正9年1月20日、織田信長、2月の馬揃えのため上洛。宿所は本能寺。  天正9年2月、織田信長、京都で馬揃えを見物。  天正9年4月11日朝、明智光秀、細川忠興(長岡与一郎)の振る舞いにて、茶会。同席は、細川藤孝・里村紹巴・津田宗及・山上宗二・平野屋道是。  天正9年4月12日、細川忠興,明智光秀父子3人と茶会を開く。  天正9年4月15日、明智半左衛門、堅田にて津田宗及と茶会。  天正9年6月25日、秀吉、因州鳥取城攻めのため姫路城を出陣。  天正9年7月12日、秀吉、因州鳥取城(吉川経家)攻めを開始。  天正9年(1581)??月、吉川元長が、鳥取城救援に向かう。  天正9年(1581)??月、越後新発田城(新発田市大手町)城主新発田重家が御館の乱の恩賞に不満を持ち、織田信長に内通し、上杉景勝に背く。  天正9年10月6日、明智弥平次秀満,丹波天寧寺に書状を与える。  天正9年(1581)、羽柴秀吉、鳥取城攻略。吉川元長は後援に来ていたが、吉川元春の本軍の来援を待つ間に落城。城主吉川経家は自害。  天正9年10月25日、羽柴秀吉が鳥取城を落とす。鳥取城が落城。//秀吉は因州鳥取城を宮部継潤に守らせる。  天正9年11月8日、羽柴秀吉が鳥取城攻略を終え、姫路城に凱旋。⇒直後に織田信長は羽柴秀吉に四国と山陽道攻略を命じ、羽柴秀吉

950(1580)_==天正8年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正8年(1580)、対馬の僧玄蘇、宗氏の依頼を受け朝鮮を訪問。  天正8年(1580)、佐久間信盛、織田信長から追放され、高野山に追われる。//この後、高野山も追放され、熊野の奥に蟄居を命じられる。  天正8年(1580)、林通勝、織田信長から追放される。//弘治2年(1560)に織田信長の弟織田信行を立てようとした罪にて。  天正8年(1580)1月2日、大坂石山本願寺に下向していた正親町天皇の勅使庭田重保と観修寺晴豊が、京に戻り参内して、和睦の成行きを奉答  天正8年(1580)1月6日、羽柴秀吉、自ら兵を率いて播磨三木城で最も高い場所にある宮ノ上砦を占領。以後、同砦から三木城を攻撃。城内は既に飢餓状態③  天正8年1月17日、播磨三木城主別所長治が、三木城落城にあたり、羽柴秀吉に対して兵の助命を条件に、城主別所長治や弟友之、叔父賀相とともに自害//長治、享年23歳  天正8年1月17日、羽柴秀吉が、別所長治の播磨三木城を二年半の城攻めの末に、攻略//城 天正8年2月、織田方の細川藤孝・忠興父子が、丹後八幡城(京都府宮津市宮村)を攻略し、一色義定を降伏させる//丹後が織田信長の支配下となる  天正8年(1580)、羽柴秀吉、亀井茲矩に因幡国鹿野城の守備を命じ、毛利勢に包囲されつつもこれを死守。  天正8年2月、織田信長、村井貞勝に本能寺の修理を命じる。  天正8年3月1日、正親町天皇の勅使として前関白近衛前久と庭田重保、観修寺晴豊が大坂石山本願寺に下向//目付として織田方の松井友閑と佐久間信盛が同行//教如(23歳)が大坂の明け渡しに大反対し、下間頼廉がこれに同調するとともに、寺内町六千戸、一万人の町衆も反対したため、容易に決着せず  天正8年3月1日、織田信長が大和郡山に出陣し、その先鋒が河内の萱振にある恵光寺(浄土真宗)とその寺内町を焼き払う//石山本願寺に対する示威行動  天正8年3月2日、実悟(蓮如の実子、89歳)が、河内門真において「本願寺作法之次第」を書き上げる  天正8年3月3日、織田信長が、摂津有岡に立ち寄る  天正8年3月

950(1579)_==天正7年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正7年、安国寺恵瓊が東福寺退耕庵の庵主となる。  天正7年(1579)、黒田孝高が織田信長の命により、小寺の苗字を改めさせられ、元の黒田を名乗る。  天正7年(1579)1月、織田信長,明智光秀・細川藤孝を安土城に呼び,丹後平定の功を賞し,光秀の三女を細川忠興に,四女を織田(津田)信澄に嫁がせるよう命じる。  天正7年2月1日、上杉景勝が、越後府中に軍を進め、御館を攻撃。  天正7年2月18日、織田信長、上洛。半月ほど京に滞在し、鷹狩りなどを楽しむ(織田信長合戦全録より)  天正7年2月28日、明智光秀、丹波攻略のためその策源地である亀山城(京都府亀岡市)に向け、居城の坂本城を進発(織田信長合戦全録より)  天正7年(1579)3月、秋上綱平(同姓庵介久家の父)病死。この時すでに秋上庵介は鬼籍に入っていた模様。  天正7年3月5日、織田信長、嫡男信忠などを率いて摂津有岡城に出陣のため、京都を進発(織田信長合戦全録より)  天正7年3月8日、織田信長が、摂津有岡城の攻城状況を検分し、箕面の滝を見物して鷹狩に興じる  天正7年3月、宇喜多直家、毛利氏を離反し、織田方に就き、三星城を攻撃(織田信長合戦全録より)  天正7年3月17日、上杉景勝が、上杉景虎(上杉謙信の養子で北条氏康の七男)の守る御館を落とす//御館が落城。御館の乱が終息。  天正7年3月24日、上杉景勝が、御館から逃走した上杉景虎(上杉謙信の養子で北条氏康の七男)を鮫ヶ尾城で討ち取る。//上杉景虎は実家の小田原城を目指して逃亡の途中、3/24に鮫ヶ尾城(新井市)で自害。享年26歳。  天正7年(1579)4月、浦上宗景ら、天正6年に天神山城を奪還するも、この段階では既に浦上秀宗や坪井らは播磨へと退去。//この間に反乱は鎮圧された可能性大。  天正7年4月、織田信長が嫡男信忠を主将として播磨三木城攻めの援軍を派遣(織田信長合戦全録より)⇒織田信忠は三木城の周囲や敵城淡河城に砦を築くとともに、小寺政職の御着城を攻撃して摂津に帰陣(織田信長合戦全録より)

950(1578)_==天正6年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正6年(1578)1月、織田信長が、安土城において盛大な茶の湯を開催  天正6年1月、織田信長が、一族の織田信清の息女を高田専修寺派(浄土真宗)の堯真に輿入れさせる//高田専修寺派は、石山本願寺と同じ浄土真宗だが、石山本願寺と敵対しており、信長に味方  天正6年、毛利輝元が、淡路岩屋の拠点に、木津川口の海戦の大将児玉就英を派遣し、播磨への牽制と石山本願寺への海路の確保を狙う  天正6年(1578)1月1日、織田信長、安土において諸国の大名の祝賀を受ける。  天正6年1月2日、播磨利神城の別所定道(治定の孫)の代に天正5年の上月の役を向かえたが、病弱な定道は勝算のない戦いを無益に感じて人質を差し出して和を乞うたという。しかし、その弟の日向守林治は好戦的で、上月城の守将となった山中鹿之助に挑戦し、これに憤った山中鹿之助は同城を攻めて横坂、甕岩の1戦で別所軍を大いに打ち破った。⇒山中鹿之助は京都に上っており、事実でない可能性大?  天正6年1月6日、織田信長、正二位に叙せられる。  天正6年1月7or8日、明智光秀、坂本にて津田宗及と茶会。  天正6年1月末、尼子勝久/山中鹿之助、上月城を宇喜多勢から奪回。  天正6年1月、吉川元春が月山富田城に入城。但馬/丹波の国人衆との連携強化を図る。しかし、別所長治の織田家への謀反により東播磨の情勢が変化したため、目標を播磨に変更。特に孤立化した上月城を攻撃目標とした模様。  天正6年2月、播磨三木城主別所長治が織田信長・羽柴秀吉を裏切り、毛利方に寝返る。  天正6年2月上旬、宇喜多直家、5千の兵力を上月城(城兵は5百程度)に投入し、攻撃。尼子勢(尼子勝久、山中鹿介ら)は羽柴秀吉の命により上月城を捨て、退却。宇喜多直家、上月村出身の上月一郎景貞を在番とし、城兵2千を預ける。  天正6年2月23日、羽柴秀吉が播磨に帰陣。加古川の糟屋内膳武則の城を借りて1部の軍勢を入れ上方との連絡の拠点とし、秀吉自身は書写山に本陣を据える。//直後、三木城別所長治が反旗を翻し、毛利方につく。別所長治の離反

950(1577)_==天正5年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正5年(1577)、宇喜多直家、主君浦上宗景が織田氏と結んだことを理由に天神山城を攻め落とす。  天正5年(1577)、宇喜多直家が天神山城を攻めて、浦上宗景を追放。(天神山城の落城については天正3年説と5年説があるが、天正3年説が有力か?) 天正5年(1577)1月、下旬、北条氏政の妹が小田原から甲府の武田勝頼のもとに嫁ぐ//尾崎殿と呼ばれる  天正5年2月2日、紀伊根来寺の杉坊らが京に上り、畠山貞政(旧河内守護畠山高政の甥)が石山本願寺に応じて挙兵した事を訴える//さらに和泉国中の門徒衆も蜂起し貝塚や千石堀、畠中などに籠る  天正5年(1577)2月9日、織田信長が雑賀攻略のために安土城を出陣し、上洛。//織田軍は総勢12万とも。  天正5年2月13日、織田信長が、紀伊の雑賀衆などを討伐するため、京を出陣//十四カ国に動員をかけ、嫡男信忠を先鋒として数万の大軍を投入  天正5年2月16日、織田信長が、紀伊討伐のため、大軍を率いて和泉に進軍  天正5年、別所長治が、織田信長の紀州雑賀討伐に従軍。  天正5年2月、羽柴秀吉、紀州雑賀衆征伐に、4400余の軍勢を率いて従軍。  天正5年(1577)2月13日、織田信長,紀州征伐のため,京都を進発。  天正5年(1577)2月15日、織田信長,紀州征伐のため,和泉に入る。  天正5年2月16日、夜、和泉の貝塚(大阪府貝塚市)で願泉寺を拠点に海辺に船を浮かべて織田方を待ち構えていた門徒衆が、織田方の大軍を見て逃げ出す//織田方に根来衆が味方//織田信忠は、和泉貝塚の寺や民家を全て焼き払う  天正5年2月22日、織田信長が、紀伊討伐の途次、和泉信達(泉南市信達)に進む//信長は、信達で軍を山手と浜手に分け、それぞれ雑賀を目指す//山手は杉坊を案内に佐久間信盛、羽柴秀吉、荒木村重らが根来街道を紀ノ川に出る//浜手は滝川一益、丹羽長秀らが淡輪口から進んで中野城(和歌山市中野)を囲む  天正5年2月25日、本願寺顕如は、織田信長の紀伊侵攻を聞き、紀伊門徒へ「其方之儀千万心許無く候、事外煙みえ候間、気遣きはまり

950(1576)_==天正4年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正4年(1576)、播磨国人の三木城主別所長治が織田信長に従う。  天正4年(1576)1月、織田信長が右大将に昇任。毛利氏から祝いの太刀、馬などが届く。 天正4年1月、吉川元春が、織田信長と羽柴秀吉に賀状を送り、同時に、信長の側衆である聖護院道澄へ織田方が尼子勝久を援助していることをなじる。 天正4年1月、織田信長が、近江安土に築城することを決め、丹羽長秀に普請を命じる。 天正4年1月(?)、石山本願寺に、雑賀など紀州門徒が次々と参集。//織田と本願寺の和議が破れるとの噂が巷を覆っていた。  天正4年(1576)1月、丹波国波多野秀治、織田軍に反旗を翻す。明智光秀は敗戦により退却。山中鹿之助、殿軍を務める。  天正4年1月中旬、毛利氏が上洛作戦に関して吉田郡山城で評定し、作戦を決定。  天正4年1月中旬、織田信長、安土城の築城を開始。(同年4月とも)  天正4年1月、吉田兼見、丹波にて敗戦の明智光秀を京都北白川に見舞う。  天正4年1月21日、明智光秀は丹波攻略中のところ近江坂本城へ戻り、兵の休息を促す。  天正4年1月、吉田兼見、近江坂本を訪れ、明智光秀と面会。  天正4年1月23日、織田信長、美濃岐阜から安土に移る。  天正4年1月or2月、前将軍足利義昭が、強引に紀伊由良から備後鞆に移る。 天正4年2月6日、毛利元康/杉原盛重ら、尼子氏の属城因幡宮吉城を攻略する。  天正4年2月8日、足利義昭が紀州由良から備後鞆の津に到着。側室や上野重政、畠山昭賢、真木島昭光、武田信景、春阿弥ら側近・同朋衆20余名。⇒毛利氏に対して幕府再興のための挙兵を促す。上杉謙信に対しても新たに働きかけを始める。  天正4年2月8月、足利義昭が、備後鞆から毛利方の吉川元春と小早川隆景宛に、内書を送り、織田信長の非を唱え、毛利氏の決起を促す。  天正4年2月8月、実悟(浄土真宗、蓮如の実子の最後の生き残りで宗派の最長老)が院家に列する。  天正4年2月、能登七尾の畠山氏で内紛があり、当主畠山義統が殺される。畠山家中は二派に分裂し、それぞれ織田方と上杉方に通じ

950(1575)_==天正3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正3年(1575)?月、石山本願寺が織田と一旦講和。  天正3年1月、羽柴秀吉が近江長浜城に入城。//この際に、地名を今浜から長浜に改名。  天正3年1月、毛利輝元、小早川隆景が備中松山城(三村元親)を開始。落城は5カ月後。  天正3年(1575)1月4日、実悟(浄土真宗、蓮如の実子)が、摂津門真の願徳寺で「願成就院事并安芸蓮崇事」を書き上げる。  天正3年1月11日、上杉喜平次が加冠し、名を景勝と改め、弾正少弼に任じられる。  天正3年2月16日、上杉謙信が、諸将の軍役を定める。//上杉配下の有力諸将39名と、出陣の際に、軍役として出さなければならない槍(三間柄の槍)3609挺、手明(テアキ)(兵糧を積んだ馬を引く兵士)650人、鉄砲316挺(他に弓5挺)、大小旗368本、馬上(騎馬兵)566騎の計5509人が記される。//当然これ以外にも兵力はあったはずである。//上杉景勝がこの際「御中城様」と呼ばれ、一門の筆頭とされる。  天正3年?月、織田信長が聖護院道澄を安芸毛利氏に遣わし、尼子残党の蜂起や三村元親の謀反は織田方によるものではないことを弁明。  天正3年(1575)2月5日、山中鹿之助、因幡若桜鬼ヶ城を攻撃。草刈景継が防戦。尼子勢が優位にたつも毛利勢の来援のため、退却。→これはおかしいかも。天正2年8月に若桜鬼ヶ城は尼子方の城となり、その後、鳥取城を逃れた尼子勝久/山中鹿之助が入城している。また、草刈景継は美作高田城主ではないか。ただ、天正3年5月に尼子勝久/山中鹿之助が若桜鬼ヶ城に入城したとの説もあり、天正2年8月-天正3年2月の間に、1度、毛利勢に落とされたのかもしれない。←  天正3年2月13日、明智光秀・村井貞勝、山城清涼寺に禁制を与える。  天正3年3月、石山本願寺が、大和田(大阪市西淀川区大和田)に砦を構え、渡辺や神崎に進出。//織田方の荒木村重は大いに怒り、門徒衆を十三の渡しに誘い出してこれに一撃を加え、さらに大和田と天満の砦を奪取。  天正3年3月3日、織田信長、岐阜から上洛し、相国寺の慈昭院に宿泊。  天正3年3月23

950(1574)_==天正2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天正2年(1574)1月1日、織田信長が、岐阜城で新年の祝いに、浅井久政・長政父子と朝倉義景の首を薄濃にして酒肴に供する。  天正2年(1574)1月3日、山中鹿之助、尼子勝久を奉じて再び因幡国へ侵攻。同行した部将は立原源太兵衛久綱/神西三郎左衛門/加藤彦5郎/亀井茲矩/吉田三郎左衛門/森脇市正/横道源介/横道権ジョウ/牛尾大炊助/足立次郎左衛門/足立治兵衛/進左吉兵衛ら。山名豊国の援助を受ける。尼子勢は伯耆への侵入後、13箇所の城を落とし、旧交のある浪人達が馳せ加わり、勢力を増大。  天正2年1月、尼子勢は毛利方の大坪甚兵衛一之が安芸に赴く事を知り、山中鹿之助が途中の鳥取辺りの雁金山の麓で待ち伏せし、大坪らを襲うも、山中鹿之助待ち伏せの知らせを受けていた大坪が小勢ながらも奮戦し、山中鹿之助が敗北。//山名豊国は何度も毛利と尼子を天秤にかけて寝返りを繰り返し、背腹常なく、最終的には家臣に追放されることになる。  天正2年1月5日、山中鹿之助/立原久綱ら、私都城(城主大坪甚兵衛は安芸へ赴き不在?)を攻めるも、毛利方の在番牛尾元貞の抵抗により退却。>この時、山中鹿之助が林という在所に逃げたことから、大坪は笑いながら、「人に会いて林に入るは、鹿と云う名には応じたり」と嘲ったという。  天正2年1月、織田信長,明智光秀に大和多聞山城を守らせる。  天正2年1月、武田勝頼,東美濃に侵攻。  天正2年1月中旬、三条西実澄,明智光秀を大和多聞山城に訪ねる。  天正2年1月19日、織田方の越前守護前波吉継が富田長繁に攻め殺される。  天正2年1月20日、織田方の越前府中城主富田長秀が、門徒衆を煽動し、織田方の一乗谷の越前守護代桂田長俊(前波吉継が改名)を15万の軍勢で襲い、殺す。//長秀も長俊も朝倉方から織田方に寝返った武将。//長俊に専横の振る舞いがあり、人心が離れており、同僚の長秀は長俊への嫉妬もあり、襲撃か?//長秀は、さらに北庄に押し寄せ、北庄を預かっていた津田元秀らを放逐。  天正2年1月、越前の諸将が一向一揆に加担し、越前

950(1573)_==天正1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  元亀4年、この年7月28日、元亀から天正に改元。  元亀4年(1573) ?月、吉川元長が、旧名の元資から元長に名乗りを改める。  元亀4年(1573) ?月、この頃の伯耆の有力者は南条氏。南条氏は佐々木源氏の庶流で、14世紀頃に南条氏の祖伯耆守貞宗が伯耆河村郡羽衣石に羽衣石城を築城したことに始まる。南北朝/室町期には東伯耆にまで勢力を伸長。羽衣石城から数㌔離れた長和田に城下町を形成。  元亀4年(1573) ?月、織田信長が羽柴秀吉/武井某に命じ、小早川隆景宛に書状。小早川隆景から因幡/但馬の情勢について報告を受け、近日中に京都に入り、但馬出兵の日限を毛利方に連絡するという内容。⇒この時期、織田信長は伊勢一向一揆の鎮定に当たっていたため実質上但馬出兵は無理だった。  元亀4年(1573) ?月、山中鹿之助、立原久綱ら、織田信長に接見。>はじめ柴田勝家を通じて織田信長に援助を願った(同年12月12日付け安国寺恵瓊の書状より)とも、明智光秀を頼ったとも>最終的には、明智光秀を頼ることになり、明智光秀の先陣を命じられた>織田信長は尼子氏への援助を約しながら、毛利氏にはこれを断ったと回答。  元亀4年(1573)?月、宇喜多直家、沼城から石山城に移る。//この頃の直家は天神山城浦上宗景の重臣。亀山城を弟春家に守らせる。  元亀4年?月、宇喜多、毛利が同盟。  元亀4年1月、織田信長が、織田掃部を刑部に滞陣中の武田信玄のもとに遣わし、腰を低くしてこれまでの経緯の弁明を行ったが、信玄意に介さず。  元亀4年1月7日、武田信玄が、織田信長との和睦を仲介した将軍足利義昭に対して、信長との講話を謝絶する旨を回答する。  元亀4年1月10日、本願寺顕如が、刑部に滞陣する武田信玄宛に、「遠州表に於て徳川敗北の様体、頻りに聞こえ候、珍重之に過ぐ可あらず候」など徳川家康に大勝したことを祝う書状を送る。  元亀4年1月17日、本願寺顕如が、刑部に滞陣する武田信玄宛に、「大慶此事に候」という書状を送るとともに、遠江・三河・尾張・美濃の四国の門徒も武田勢

950(1572)_==元亀3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  元亀3年?月、宇喜多秀家誕生。  元亀3年(1572)1月10日、本願寺顕如が、長子教如の得度に対する謝恩として、朝廷に300疋を献上。//教如の得度は永禄13年2月であり、得度の謝恩は名目で、朝廷との結び付きを強めるための献金。  元亀3年1月14日、本願寺顕如が、武田信玄に宛てて、織田信長が春に摂津・河内に出陣するとの風聞に対して、背後からの牽制を要請。合わせて、上杉謙信に攻められている越中の椎名康胤を助けて欲しい旨も要請。さらに、信玄に黄金50両、息子勝頼に黄金20両を贈る。  元亀3年1月18日、織田信長が、将軍足利義昭の名で、武田氏、北条氏、上杉氏の和睦を呼びかける。  元亀3年(1572)1月21日、吉田兼見、近江坂本に明智光秀を訪れる。  元亀3年1月23日、六角義賢が、門徒とともに近江の金ケ森と三宅(守山市三宅町)に籠る。//織田方は、佐久間信盛がこれを攻めるも容易に落ちず。  元亀3年閏1月3日、上杉謙信が、武田方の属城上野国石倉城を攻略し、城郭を破却して、厩橋城に凱旋。その後、武田・北条軍と利根川を挟んで対陣したが、同年4月に帰国。  元亀3年閏1月6日、吉田兼見、明智光秀の坂本築城の見舞いに行って、酒肴を送る。 元亀3年閏1月13日、将軍足利義昭が、毛利輝元と小早川隆景宛に、讃岐まで兵を出すよう要請する書状を送る。  元亀3年閏1月26日、即位の旗桙の役を務める四郎二郎というものの給田が、法証寺領と号して勘落された(足利義昭が没収)事に対して、正親町天皇が武家伝奏万里小路惟房を通じて明智光秀に命じてこれを止めさせるよう求める。 元亀3年3月3日、吉田兼見,明智光秀を訪ねて近江坂本に赴くも,明智光秀不在。  元亀3年3月6日、織田信長,羽柴秀吉の守る近江横山城に入城。  元亀3年3月7日、織田信長が4万の兵を率いて浅井久政・長政父子討伐のため近江に着陣。  元亀3年3月7日、織田信長,小谷山と山本山との間に陣して余呉・木ノ本などを放火。  元亀3年3月12日、本願寺顕如が、朝倉義景に書状と太刀・馬など十種十荷の贈物を送る。//近

950(1571)_==元亀2年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  元亀2年、清水景治(清水宗治の嫡子)が生まれる。  元亀2年(1571)1月2日、織田信長が、近江横山城にいる木下秀吉に、大坂と北国(北陸)の往来を封鎖するよう命じる。  元亀2年2月7日、本願寺顕如が、朝倉義景から贈られた舜挙の絵2幅が届いたことに礼状を発送。//義景は昨年夏に舜挙の絵を発送していたが、道中混乱のため到着が遅れたか?  元亀2年(1571)2月7日、尼子家臣平野基久、伯耆国尾高城下の浄満原に夜襲をかけるが、尾高城主杉原盛重、尼子勢を城外に打ち破り、平野基久が討死。  元亀2月2月中旬、山中鹿之助、平野基久の弔い合戦のため尾高城(守将杉原盛重)を攻めるが、返り討ちにあい、尼子勢の馬田慶篤が討死。  元亀2年2月18日、石山本願寺の慶寿院(顕如の祖母)が逝去。享年79歳。//幼かった証如や顕如を後見。  元亀2年2月、浅井氏の属城佐和山城は元亀1年6月以来の籠城に耐えかね、城主磯野員昌は開城し、攻撃側の丹羽長秀と人質を交換し、高島に退きのく。織田信長は、磯野員昌の降を入れ、近江高島郡を与える。  元亀2年2月、織田信長が丹羽長秀に近江国佐和山城を与える。  元亀2年2月、足利義昭が参内。この際,辻固めに伊丹勝興が三千ばかりを率いて上京。供奉は細川藤賢・細川藤孝・伊勢三郎・飯川弥四郎・真木島孫六・安威兵部少輔・後藤治部少輔・沼田弥四郎・沼田弥七郎,奉行は諏訪時長・飯尾昭連。  元亀2年2月30日、織田信長,岐阜から入京して,明智光秀の陣を宿所とする。  元亀2年3月1日、織田信長,禁裏へ伺候。禁裏の修繕の作事を見て回る。  元亀2年3月16日、三好義継・松永久秀,織田信長を見舞う。申し次は村井貞勝。  元亀2年3月19日、高瀬城主米原綱寛、毛利勢に寝返った野村士悦を頼って開城。これにより吉川元春、高瀬城を攻略。城将米原綱寛は新山城に送られる。高瀬城は長い籠城で兵糧が底を尽きた。  元亀2年4月17日、上杉謙信が、伝馬と宿送の印鑑を定める。//印文は「勝軍地蔵・摩利支天・飯縄明神」  元亀2年4月1

950(1570)_==元亀1年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の年表ですので、誤りがある可能性がございます。>_< >_<ご利用に際しては、各人で十分に史実をご確認ください>_<  永禄13年、この年4月23日に元亀に改元。  永禄13年(1570)、この年4月に元亀に改元。  永禄13年(1570)、織田信長、公家衆にその所領を書き上げることを命じる。  元亀1年、宇喜多直家、石山城主金光宗高を暗殺し、石山城を奪う。  永禄13年(1570)1月6日、毛利勢、尼子氏討伐のため、安芸吉田郡山城を出陣。折から深雪。  永禄13年(1570)、毛利元就、毛利輝元を総大将として、粟屋元真/国司元武以下譜代約6千、吉川元春と石見衆、小早川隆景と備後衆、宍戸隆家と備中衆、さらには天野元定、熊谷信直や安芸佐東川内以下の水軍2百艘で総兵力2万5千で尼子氏討伐を開始。  永禄13年(1570)1月7日、本願寺顕如が、織田信長に年賀の祝儀と太刀・馬を贈る。 永禄13年(1570)1月11日、上杉輝虎が、佐野昌綱の下野国唐沢山城を攻め、これを北条氏政に知らせた上で、武蔵岩槻城を太田資正に返還するよう要求。  永禄13年1月16日、本願寺顕如が、足利義昭に三淵晴員を通じて年賀の祝儀を献上。  永禄13年、織田信長が、阿波の門徒が三好三人衆に加担している点について石山本願寺を糾弾し、石山からの退去を求める。//顕如は怒り、評定の結果、信長が攻めて来れば戦う他なしと決定し、「此度、石山の境内を御城地になされたき思し召しに付き、御処望尤もに候えども、当地は仏意相応百縁の地に候はば、ひとえに御用捨下さるべし」と返答。  永禄13年1月23日、織田信長が足利義昭に5カ条の条書を提示。宛名は織田信長から朝山日乗と明智光秀となっており、足利義昭が袖判をおして承認する形になっている。//足利義昭、この条書きの内容に憤る。  永禄13年1月23日、織田信長が諸国の大小名に2月中旬の参洛をうながす書状を発信。畿内、近国の大名/国衆が中心だが、遠国では三河/遠江の徳川家康、甲斐の武田氏、北陸の神保、出雲尼子氏、備前衆(浦上氏など)があり。  永禄13年(1570)1月28日、毛利氏、出雲飯石郡多久和(現三刀屋町多久和:守将多久和大和守)の多久和城を攻撃。秋上庵介/尤道理介