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950(1535)_==天文4年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文4年(1535)1月、安芸加茂郡で尼子方の平賀興貞が大内方で安芸白山城主の父弘保と弟貞景らの攻撃を受けるが、2月に和睦。  天文4年3月、毛利勢が備後三次の三吉氏属城三吉城を落とす。  天文4年3月、毛利勢が備後比婆郡上高野山の尼子方の多賀山通続を攻撃。多賀山通続は水の手を断たれ開城。//多賀山通続は反復常なかったが、一応尼子方の一大勢力だった。  天文4年(1535)3月20日、石山本願寺のそばの生玉社のある信貴(シギ)の森において、勧進能が催される。//金春系の宮王太夫が演じる。  天文4年3月25日、本願寺の主戦派下間頼盛が、本願寺証如に暇を申し出る。//頼盛とその父頼玄に関する噂が流れたため。//頼盛は5月の細川晴元勢との合戦に出陣しているので、結局、慰留されたか?   天文4年、毛利元就、調略により備後比婆郡甲山城主山内直通を味方とする。//山内直通は尼子経久に背いた経久三男塩冶興久を匿い、最終的に経久の命で塩冶興久を自害に追い込んだことから、尼子氏としっくり行かなくなっていた。  天文4年4月7日、蓮淳(浄土真宗、蓮如の子息で先代の法主実如の兄弟)が伊勢長島から石山本願寺に移る。  天文4年4月11日、前年1月の火災で西宮社から消失した宝剣と宝珠が、一向宗徒のもとにあることがわかり、証如はこれを西宮社に返却。  天文4年4月15日、摂津四天王寺において土塔会(ドトウエ)の祭礼が催される。//実従(浄土真宗)が見学に行った。  天文4年4月27日、実従(浄土真宗)が、下間頼玄に代わって、御影堂カギ取役に任じられる。※カギは金偏に益。  天文4年5月30日、細川晴元方が八箇所(大東市近辺)に侵入したため、下間頼盛が町衆を率いてこれを防ぐ。  天文4年6月10日、細川晴元方と一向宗徒が杜河内で合戦し、一向宗徒が崩れて、細川晴元方が石山本願寺の足元の中道(大阪市東成区中道)まで迫る。  天文4年6月11日、細川晴元方が石山本願寺の足元にある天王寺へ回り、高津や渡辺

950(1534)_==天文3年==(最新版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文3年(1534)1月、毛利元就と甲立五竜城主宍戸元源と和睦し、元源の孫隆家と元就の長女との婚約が決定。  天文3年(1534)1月28日、摂津の西宮社(西宮市社家町)が炎上し、宝殿の剣と珠が消失。  天文3年2月、三宅出羽守国村が浄土真宗に改信。//一向宗徒を味方につけるため?  天文3年2月3日、石山本願寺において、寺内町の清水町の堀を深くする工事が始まる。  天文3年3月10日、下間頼盛(浄土真宗)らが摂津や河内で遊撃を繰り返し、この日は御厨屋や杜河内を攻める。//石山本願寺の足元にある高津や渡辺も焼けた。  天文3年5月11日、尾張那古屋城主織田信秀に嫡男吉法師(後の信長)が誕生。  天文3年6月5日、三好利長が本願寺側に寝返る。//石山の西の野田(大阪市福島区野田)に陣取る。//利長は父元長が討死した原因が細川晴元にあることから、その敵方の細川高国についた。  天文3年7月、毛利元就、備後宮城主宮下野守直行の子元盛を下す。  天文3年、尼子経久は備後甲山城主山内直通を諭し、塩冶興久(尼子経久の三男で天文1年に経久に謀反し、直通の元に落ち延びていた)を自害させる。  天文3年7月25日、下間頼桂が、討死。  天文3年8月3日、木沢長政が、京近郊の西山の谷(西京区松尾谷松尾山町)に籠る一向宗徒を攻め落とす。//この際、西芳寺が炎上。//三好利長は椋橋城(豊中市庄内)に逃げる。//細川晴元は伊丹親興に討伐を命じるが、親興は敗れる。  天文3年9月3日、近江坂本にいた将軍足利義晴が入京。  天文3年9月17日、本願寺西隣にある法安寺の小屋が失火により焼ける。  天文3年9月、越前に逃れていた加賀三カ寺方の加賀国人衆が、牛の谷に陣取り、しきりと加賀を窺う//大将の黒瀬左近四郎が本山方に寝返ったため、加賀三カ寺方の諸将は四散。  天文3年10月20日、三好利長が、細川晴元方の伊丹氏・池田氏と潮江庄西田中(尼崎市潮江)で合戦。//一向宗徒が利長を助け、利長方が勝利。

950(1554)_==天文23年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文23年(1554)初頃?、石見津和野三3本松城主吉見正頼(おそらく大内方)が陶晴賢討伐のため挙兵。⇒大内氏重臣陶晴賢がこれを討伐するため出陣。  天文23年(1554)2月12日、室町第13代将軍・足利義藤が義輝に改名。近江朽木で流遇中。  天文23年(1554)5月、毛利元就が陶晴賢討滅のため挙兵>このとき陶晴賢は石見三3本松城主吉見正頼を攻めていた。  天文23年(1554)9月、毛利元就が安芸桜尾城の西方折敷畑で陶方の勇将宮川房長を殲滅。  天文23年(1554)11月1日、尼子国久ほか尼子新宮党が、毛利元就の謀略により、尼子晴久によって誅殺される>尼子氏では毎年11月1日に次年のことを評議するため一門衆、家老衆が富田城に集まることになっており、尼子国久も登城したが、その帰途、尼子晴久の命を受けた大西1兵衛、本田豊前守がこれを襲う。ここで嫡男誠久も討ち取られる。⇒その他は新宮谷に帰り、籠城。  天文23年11月2日、出雲尼子氏内紛で尼子晴久側の富田勢が新宮谷に押し寄せたが、半数以上を討ち取られるが、夜中になって新宮党は全滅。⇒誠久の四or五男孫四郎が乳母の懐に抱かれて新宮谷を落ち、備後の徳分寺を頼り、成人の後出家して上洛し、東福寺の小僧となる。これが尼子勝久と伝えられる。>>尼子新宮党の滅亡の異説として、尼子誠久が普段から武功を誇り、尼子将士の反感を買っていたことや、尼子国久が誠久の弟与四郎を偏愛するあまり誠久の嫡男に伝えた領地を与四郎に与えようとしたため、憤った誠久の嫡男が尼子晴久に国久謀反のことを讒言したとの説もあり。  天文23年、新宮党尼子国久(経久の次男)とその子誠久、敬久が毛利元就の謀略により、尼子当主晴久により誅される。  天文23年12月、北条城(柏崎市北条)城主北条高広が、武田氏の誘いに乗って、長尾景虎に謀反する。  天文23年12月5日、武田氏家臣甘利昌忠と長尾景虎に謀反した北条高広が春日山城攻略の謀議を行う。

950(1553)_==天文22年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文22年(1553)、室町第13代将軍・足利義藤(のち改名して義輝)が細川晴元と協力して三好長慶との戦いを開始。その後敗れて近江朽木に逃れ、以降5年間を近江朽木で過ごす。  天文22年(1553)1月1日、杵築大社法楽の連歌会が催され、宗養が「八8雲にもけふ九重の霞かな」と発句。  天文22年(1553)2月10日、長尾晴景(上杉謙信の実兄)が病死。享年45歳と伝えられる。法名千厳院殿華獄光栄。//長尾景虎(のちの上杉謙信)が越後の大名となる。  天文22年(1553)春頃、大内家重臣陶隆房が、当主大内晴英の1字をもらい陶晴賢と改名。  天文22年(1553)4月、尼子晴久が備後の失地回復を目的として、出雲仁多郡横田に出陣、先方は甲山に到着。⇒備後比叡尾山城主の三吉氏が毛利元就に援軍を依頼。<<尼子晴久は備後甲山城主山内隆通や川西旗返城主江田隆連らが尼子方に味方したことを契機に備後出陣。  天文22年(1553)4月9日、武田信玄が、葛尾(カツラオ)城(埴科郡板城町)を落とす。//同年8月5日、城主村上義清は越後に逃れる。  天文22年4月20日、長尾景虎が、延暦寺座主二品堯尊(ニホンギョウソン)親王からの依頼で、山門大講堂造営費として黄金200枚を寄進。  天文22年4月22日、上杉軍と武田軍が八幡(更埴市)で合戦//長尾景虎や武田晴信が出陣したか否かは不明。  天文22年5月、長尾景虎が、天文21年4月の従五位下弾正少弼叙任の御礼に、金余(カナマリ)親綱を上洛させ、朝廷へ剣、黄金、巻絹を、将軍義輝へ長光の太刀一腰、河原毛の馬1疋、青銅3000疋(30貫)、大鷹1本を、将軍夫人へ樽代500疋を贈る。同時に、大館晴光に太刀一腰、鳥目500疋、大鷹1本、大覚寺義俊に青銅1000疋、渡辺盛綱・神崎光勝・富森信盛らにもそれぞれ鳥目200疋を贈り、斡旋の労を謝した。  天文22年(1553)5月21日、尼子晴久、備後比婆郡口和町泉山城を攻撃するも、毛利勢破れ、甲山に退却。⇒この後、旗返の

950(1552)_==天文21年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文21年(1551)、下間仲之が生まれる。//下間仲之は、親鸞の直弟子蓮位房法阿の直系の子孫で代々本願寺の坊官を務め下間少進と称した家系で、後に石山本願寺の最高幹部の一人として顕如を助けて活躍した。  天文21年(1552)1月、室町第13代将軍足利義藤(のちに改名して義輝)が、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻る。(天文18年に京を追われていた)  天文21年(1552)1月10日、関東管領上杉憲政が小田原城(神奈川県小田原市)城主北条氏康に敗れ、長尾景虎を頼って上野国平井城(群馬県藤岡市)から逃亡する。//景虎は、平子(タイラク)孫太郎と庄田定賢らを沼田城(群馬県沼田市)に派遣。  天文21年(1552)3月3日、陶隆房が大友宗麟の弟晴秀を大内家当主として山口に迎える。/前年9月に大内義隆を討取ったことを考えると若干遅めか。  天文21年(1552)3月3日、織田信秀逝去。享年42歳。当時19歳の織田信長が跡目を相続。織田信長は三男ながら嫡出だった。  天文21年(1552)4月2日、尼子晴久、室町幕府から出雲/隠岐/因幡/伯耆/備前/美作/備後/備中の守護職の補任を受ける。>大内氏が陶晴賢の謀叛のため混乱していた。>この時には既に毛利元就は次男元春が吉川家を、三男隆景が竹原・沼田の両小早川家を相続させていた。  天文21年(1551)4月23日、長尾景虎(後の上杉謙信)が、百五代後奈良天王から従五位下弾正少弼に叙任される。  天文21年、尼子晴久(詮久)が出雲大社の掟を定める。  天文21年6月、長尾景虎が、上洛の安全を確保するため、越前の朝倉宗滴(教景)に鷹と鳥屋(鳥籠)を贈る。  天文21年(1552)6月20日、長尾景虎が、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政の失地回復のため、平子(タイラク)孫太郎、庄田定賢らを沼田城(群馬県沼田市)に派遣する。  天文21年7月、毛利元就が備後滝山城(深安郡志川:城主宮光音氏)を攻め落とす。  天文21

950(1551)_==天文20年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文20年(1551)8月1日、長尾景虎が、天文19年に謀反した坂戸城主長尾政景に誓詞を送り、降伏する。//長尾政景は天文19年12月に謀反。//景虎は長尾政景が義兄であること、老臣たちの切なる助命嘆願があったので、許して臣下とした。  天文201年(1551)8月29日、大内氏重臣陶隆房が謀反の旗を揚げ、周防富田の若山城を出陣。午の刻(正午頃)山口に突入。杉重矩・内藤興盛らとともに法泉寺を攻める。  天文201年9月1日、大内義隆、陶隆房の叛乱・追撃により長門深川の大寧寺で自害。享年45歳。//武功夜話では天文18年9月1日に大内義隆が長門国大寧寺で自害とある。  天文20年12月、上杉景虎が、上洛の安全を確保するため、近江の六角定頼に太刀と鷹を贈る。

950(1550)_==天文19年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文19年(1550)、毛利元就、有力家臣の井上衆を専横のかどで誅伐。  天文19年(1550)、尼子晴久(詮久)、出雲大社の遷宮を執行。  天文19年(1550)2月26日、越後守護上杉定実が逝去。法名永徳院殿天仲玄清。越後守護上杉家は断絶。  天文19年(1550)2月28日、長尾景虎が室町十三代将軍足利義輝から白傘袋(シロガサブクロ)と毛氈の鞍覆(クラオオイ)の使用を許される。//事実上の国主待遇。  天文19年5月、室町第12代将軍・足利義晴が近江常在寺にて死去。  天文19年12月、越後守護代長尾一族の長尾政景(景虎の姉仙桃院の嫁ぎ先で、仙桃院は後の上杉景勝の母となる)が坂戸城(南魚沼郡六日町)に立て籠もり、謀反する。//長尾景虎(のちの上杉謙信)の母の実家である栖吉長尾家の勢力拡大に長尾政景が不満を覚えたことなどが理由か?

950(1549)_==天文18年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文18年(1549)、三好長慶、遊佐長教(長慶の岳父)が、細川高国の養子氏綱を擁立し、細川晴元家臣三好政長(晴元の軍事面を支えていた)を摂津榎並で討ち取る(江口の戦い)。  天文18年6月、三好長慶・細川氏綱が、足利義晴・義藤(のち改名して義輝)父子、細川晴元を京都から再び追う。将軍父子は近江坂本に逃亡し、常在寺に留まる。  天文18年(1549)9月4日、毛利勢が尼子方の山名理興の備後本城を落とす。⇒山名理興は出雲に走り、備後の尼子勢力の一大拠点が消滅。  天文18年冬頃、大内氏重臣の陶隆房が謀反の準備を進め、重臣杉重矩、内藤興盛もこれに賛同。武断派の三重臣が謀反に賛同。

950(1548)_==天文17年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文17年(1548)、吉川元長誕生。幼名鶴寿丸、長じて、少輔次郎と名乗る。父は吉川元春で嫡男。  天文17年(1548)12月30日、長尾景虎(越のちの上杉謙信)が、越後守護上杉定実の調停で、栃尾城から春日山城に入って兄晴景と「父子の義」を結び、守護代長尾家を相続。

950(1547)_==天文16年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文16年(1547)、武田信玄が甲州法度之次第を制定。  天文16年(1547)、吉川経家が生まれる。

950(1548)_==天文17年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_< ※※整理中※※  天文17年(1548)、吉川元長誕生。幼名鶴寿丸、長じて、少輔次郎と名乗る。父は吉川元春で嫡男。  天文17年(1548)12月30日、長尾景虎(越のちの上杉謙信)が、越後守護上杉定実の調停で、栃尾城から春日山城に入って兄晴景と「父子の義」を結び、守護代長尾家を相続。

950(1547)_==天文16年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文16年(1547)、武田信玄が甲州法度之次第を制定。  天文16年(1547)、吉川経家が生まれる。

950(1546)_==天文15年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文15年(1546)、黒田秀忠がふたたび黒滝城に立て籠もり、反旗を翻す。  天文15年(1546)2月28日、長尾景虎は守護上杉定実の命で黒滝城に出陣し、黒田一族を討伐し一族全員を切腹させる。  天文15年(1546)9月20日、山中満幸(山中鹿之助の父)、逝去。享年27歳。

950(1545)_==天文14年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文14年(1545)8月15日、山中鹿之助、月山の北麓広瀬川のほとり広瀬(富田)の山中屋敷に生まれたと言われる。あるいは月山山麓の新宮谷で出生。山中満幸の次男で、母は立原佐渡守綱重の娘。幼名甚次郎。(天文9年生まれとの説も)  天文14年(1545)10月12日、上杉家の老臣黒田秀忠が長尾景虎(のちの上杉謙信)の兄景康を殺害し、黒滝城(西蒲原郡弥彦村)に立て籠もり、謀反する。//春日山城危機の方に接した長尾景虎は「家国の瑕瑾」と憂い、兄長尾晴景のもとに馳せ参じ、黒田秀忠を討伐し、栃尾城に凱旋。

950(1544)_==天文13年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文13年(1544)1月、織田信長、斎藤道三に兵を借りて那古屋城の留守居を委ね、村木城を攻める。  天文13年(1544)、尼子晴久(詮久)が出雲大社に伯耆の地を寄進。  天文13年(1544)2月9日、長尾景虎(後の上杉謙信)が国内安全祈願のため、守門神社(栃尾市)に社領を寄進。//その後、景虎は栃尾城代本庄実乃(サネヨリ)、三条城代山吉行盛、母の実家栖吉城主長尾氏らの協力を得て、揚北衆を撃退。  天文13年2月中旬、尼子晴久が因幡攻略のため東征の途につく//去る大内義隆の出雲出兵に際して大内方についた南条宗勝や行松入道らを討伐するため。⇒その後尼子晴久は伯耆八橋(ヤバセ)城に入城し因幡平定に乗り出す。  天文13年3月11日、毛利勢が尼子勢と備後甲奴郡田総(タテフ)で衝突。  天文13年3月17日、隠岐守護代隠岐宗清が逝去。跡目を嫡男豊清が相続。  天文13年7月中旬、尼子勢の先陣の新宮党、亀井、牛尾、平野以下7千余人が3次比叡尾城主三吉広隆攻略のため布野に着陣。  天文13年7月28日、毛利元就が備後比叡尾城に派遣した福原、小玉らの1千余人が、未明に朝霧に包まれた江川を渡って尼子陣に攻め込むも、深入りしすぎ、毛利勢が大敗北。「深野崩れ」と呼ばれる。  天文13年7月29日、比叡尾城主三吉広隆が、昨日の戦勝に酔う尼子勢の陣地を急襲して大勝利を得る。⇒この後、尼子国久ら尼子勢は出雲に退却。  天文13年初夏、尼子晴久、因幡に入国。⇒その後、気高郡奥沢見の大崎城を攻略し、ついで同郡鹿野城を落とし、鳥取城下に火を放ち、八頭郡私都(キサイチ)城を攻めようとしたが、母の危篤の注進があり、5月上旬出雲への帰途につく。  天文13年10月、尼子国久率いる尼子勢が再び備後に進軍し、出雲陣の帰途討死した小早川正平の子又鶴丸(のちの繁平)の守る豊田郡沼田の高山城を攻撃⇒落城しなかったので、高野山・久代などの人質をとり、そのまま美作に進攻し、浦上宗景の勢力下の真庭郡高田、篠フキ、苫田郡医王山

950(1543)_==天文12年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文12年(1543)、種子島に鉄砲が伝来。  天文12年(1543)、越後揚北衆(鳥坂城主中条藤資、本庄城主本庄房長、平林城主色部勝長ら)が長尾晴景(後の上杉謙信の兄)に従わなくなり、長尾景虎(後の上杉謙信)は兄晴景を助けるため敵に囲まれた三条城(三条市)に入り、ついで栃尾城(栃尾市大野)に移る。  天文12年(1543)、後の本願寺顕如が生まれる。  天文12年(1543)1月21日、大内義隆、出雲宍道の畦地山に本陣を移す。//ここで富田城を眼下に望むことができる京羅木山への移陣について諸将に諮り、進軍に決する。  天文12年2月12日、大内義隆、本陣を出雲京羅木山へ移し、陶隆房は経塚、兵庫頭は三沢為清、三刀屋久扶とともに出雲富田八幡山に布陣//京羅木山は出雲富田城を眼下に望む最前線となる。⇒そのまま3月上旬まで合戦でらしい合戦はなし。  天文12年3月14日、尼子方の大老牛尾幸清、川副久盛ら1千余が、大内方の寄手内藤興盛、毛利元就の連合軍5百余を出雲富田城の菅谷口蓮池縄手で撃退。  天文12年3月下旬、尼子新宮党2千余を率いた尼子誠久、敬久兄弟が新宮谷近くの金屋の洞光寺を攻めた大内方の平賀隆宗、益田藤兼ら5百余を撃破。この際、大内方の吉川興経が横槍を入れ、平賀らは討死を逃れる。  天文12年3月頃、大内義隆、出雲富田城包囲の陣中に京都の神道家吉田兼右を招き神道伝授を受ける。⇒この間、厳島神社や筑前箱崎宮、伊勢神宮、出雲日御碕神社、出雲揖屋神社に戦勝祈願依頼。⇒出雲鰐淵寺にも旧領を寄進。  天文12年4月12日、大内方の毛利元就、隆元父子が出雲富田城の塩谷口に寄せるも尼子軍に撃破される。⇒出雲富田城の大内氏包囲に伴う城麓の局地戦は大内方の敗色が濃くなっていた。  天文12年4月晦日、大内方についていた三沢、三刀屋、本城、吉川、山内らの石見衆、出雲衆が大内氏を裏切り、富田城に入城//大内方に残ったのは毛利、平賀、三吉、福屋、天野、益田など。  天文12年5月7日、大内義隆は出

950(1542)_==天文11年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文11年(1542)1月、大内義隆、出雲国遠征のため、自ら山口を出陣。//養嗣子周防権介晴持、陶中務大輔隆房、杉伯耆守重矩、内藤下野守興盛の三重臣以下、精兵1万5千が従軍。⇒その後安芸国国府で毛利元就ら芸備の兵を合わせて石見路から出雲に向かう。  天文11年(1542)3月初旬、大内勢の出雲遠征の先鋒が石見国邑智郡出羽(イズハ)二ツ山に到着。ここで、益田、福屋、佐波、出羽、小笠原、本城らの石見国人衆が合流。⇒その後、江川の都賀の渡を越えて出雲に入国。  天文11年(1542)4月5日、越後守護上杉定実は隠居を決意し、誓書を守護代長尾晴景(上杉謙信の実兄)に送る。  天文11年6月、大内勢が出雲国飯石郡赤穴の瀬戸山城を攻囲。城主は赤穴光清で、富田城から援軍として田中三郎左衛門が入城//瀬戸山城は尼子1旗の4番目に位置する富田城防衛の重要拠点。  天文11年6月7日、出雲瀬戸山城攻囲中の大内方の先陣熊谷直続が抜け駆けして城に肉薄するも、反撃にあい部下の荒川与三とともに討死。  天文11年7月27日未明、出雲瀬戸山城攻囲中の大内勢4万が瀬戸山城の総攻撃を敢行するも、城主赤穴光清以下の頑強な抵抗のため未の刻(午前2時頃)に総退却。しかし、この日の合戦で赤穴光清が流れ矢に当たり討死。享年5〇歳。//大内勢は数百が討死。⇒赤穴光清討死のため、援軍の将田中三郎左衛門は光清の妻子を助けるという条件で開城。⇒その後、田中はじめ城兵達は同月29日に富田城に到着。  天文11年6月29日、出雲遠征中の大内義隆が本営を飯石郡頓原の由木に移し、兵に休息を与える。  天文11年10月中旬、出雲遠征中の大内義隆が出雲三刀屋ヶ峰に進攻。  天文11年11月上旬、出雲遠征中の大内義隆が出雲八束郡、大原郡の境界高津馬場に転陣するも、嵐のため馬潟(マカタ)の正久寺に陣を移す。//大内勢はここで冬を越し立春の雪解けを待ち、富田城攻略に着手となる。

950(1541)_==天文10年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文10年(1541)1月3日、安芸吉田郡山城を包囲中の尼子勢が相合近辺で小早川興景勢や毛利勢に攻撃される。  天文10年1月11日、大内氏重臣陶が本陣を山田中山から吉田郡山城麓の天神山へ移動//いよいよ戦機が熟す。  天文10年1月12日、尼子方の安芸桜尾城主友田興藤が3島村上水軍と連携し、厳島を占拠。  天文10年1月13日、毛利勢3千が、早朝、宮崎長尾の尼子勢の陣地を強襲。尼子勢の第1陣高尾豊前ら2千、第2陣黒正甚兵衛ら1千5百を破り、第3陣吉川興経1千と干戈を交える。吉川興経がよく防ぎ、勝敗不明のまま日没を向かえる。  天文10年1月13日、陶隆房率いる大内勢が、宮崎長尾の尼子勢を攻める毛利元就と連携し、尼子詮久の本陣を急襲。尼子本陣は手薄になっていたため、総帥尼子詮久の命運も危ういと見えた所に尼子下野守久幸が大内勢に突入し、大内勢の先鋒大将深野重房を倒し、宮川善左衛門ら数十名を討ち取ったが、乱戦の中、力尽きて戦死。久幸が奮迅する間に分散していた尼子勢が本陣に馳せ参じ、大内勢追い散らして、尼子詮久は事なきをえる//この日の合戦で尼子勢4百余人、大内勢470人が討ち取られたという。  天文10年1月13日夜、尼子詮久が安芸吉田郡山城攻めの本営に重臣を集めて軍議を開き、明日の総退陣を決定。  天文10年1月14日、早朝(寅の刻頃)、尼子勢が安芸吉田郡山城攻略から撤収開始//大内勢・毛利勢は退却する尼子勢を猛追し、多大な被害を与える。  天文10年(1541)1月、尼子詮久、毛利元就の安芸郡山城攻めを断念。毛利元就、籠城5カ月。陶隆房率いる大内氏の来援など。//尼子経久や尼子下野守久幸は当初より郡山城攻めに反対。この尼子氏の敗戦により、芸備の国人を始め出雲国内でも三沢/三刀屋らの国人が大内氏に誼みを通じるようになる。  天文10年1月15日、大内水軍が尼子方の村上水軍と厳島神社の大鳥居前での戦いに勝利するとともに、大内勢が尼子方の安芸桜尾城主友田興藤に占拠された厳島を奪還。  天文10年1月16日、

950(1540)_==天文9年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文9年(1540)、尼子氏対大内氏の対立が激化。尼子氏は播州から撤退したと思われる。  天文9年(1540)1月、大内勢が安芸国内の尼子勢討伐のため防府を出陣。⇒同年3月に岩国に向かい尼子勢に備える。  天文9年6月下旬、尼子勢のうち尼子国久率いる新宮党3千余騎が安芸吉田郡山城に向けて進発//尼子氏の昨年来の軍議では尼子下野守久幸が毛利氏討伐に反対し、また、尼子経久も久幸に賛同するも、当主尼子詮久はこれを容れず、大内氏が同年3月に岩国に向かったことを聞き、早々に新宮党を進発させた。⇒その後、三刀屋、掛合、頓原、赤穴を経て、尼子方の三吉隆信の守る安芸志和地八幡山城に進出。⇒此処から江の川上流の可愛川を渡って高田郡甲立に至り、吉田郡山城を背後から攻めようとした。八幡山城から南西4㌔の地点に祝山城があり、備後五竜城主宍戸元源の弟深瀬隆兼が守備し、守りを堅固にして尼子勢の来襲を待つ⇒尼子勢は祝山城を目指し、可愛川東岸から祝山城麓の石見堂の渡り口に押し寄せ可愛川を渡河しようとしたが、水深が深く渡河できず、そこに深瀬隆兼が全軍に攻撃を命じ、可愛川を挟んで散々に防戦。尼子勢の背後から伏兵もおこり、尼子勢は八幡山城間で退却し、さらに富田城に退いた。  天文9年8月、尼子方の川本温湯城主小笠原長隆が大森銀山を奪取。  天文9年8月19日付、尼子家家臣団の奉加帳(近江竹生島宝厳寺造営のため同寺から自尊上人が出雲に下向)。奉加帳には、詮久/刑部少輔国久(詮久の叔父)/式部少輔誠久(サネヒサ)/下野守久幸/新四郎久豊/彦四郎清久/次郎四郎詮幸/小四郎久尊(ヒサタカ)/又四郎の8名の尼子氏一族、次に「御一族衆」の宍道八郎(宍道氏は尼子氏の祖高久の弟秀益を祖)/鞍智右馬助(鞍智氏は高久の祖父京極高氏(導誉)の弟時満を祖)/宍道九郎が見える。次に「奉公の末」として朝山安芸守(神門郡朝山郷を名字/本拠とする有力国人)など。次に「出雲州衆次第不同」とあり、隠岐五郎右衛門尉以下68名で隠岐氏/湯氏/古志氏(以上義清流佐々木氏の流れ

950(1539)_==天文8年==(旧版)

>_<あくまでも司空流の「こうかも」年表ですので、誤りがあっても司空は一切の責任はとりません。>_< >_<ご利用に際しては、解説・注意をご確認の上、各人で十分に史実をご確認ください>_<  天文8年(1539)、周防大内氏重臣陶興房逝去。  天文8年5月、大内氏が尼子氏から石見大森銀山を奪回。//奪還後、大内義隆は大森銀山に年間5百枚の運上銀(6年前の5倍の運上額)を命じる。  天文8年10月、尼子勢が播磨英賀(アガ)城(姫路市)を落とす。  天文8年10月、尼子勢が、播磨守護赤松政村の救援のため備中に進出した阿波守護細川持隆の軍勢を撃退。  天文8年11月、尼子勢が、反撃を企図して播磨に入国した赤松晴政(旧名村政)を再び追放//赤松晴政は摂津滝山から和泉堺へ逃れる。